aise voice

 ブルーはベッドの端に腰掛けて小さく溜め息をつく。悲しい溜め息ではない。幸せに満ちた溜め息だ。
 幸せ、だよ、ジョミー。目の前で眠るジョミーへと語りかけるように、ブルーは薄く微笑んで首を傾げた。ふわりとした綿毛のような温かさがブルーのを包んでいた。それに名をつけるときっと「幸せ」になるのだろう。
 君にもらったものだ、ジョミー。ジョミーの額を手の甲で撫で、汗で張り付いた髪を指先で散らしてやる。
 手を離す際に苦しげな吐息が手を掠めた。熱く湿った吐息だった。その感触はジョミーを抱きしめているときを彷彿とさせる。熱い抱擁、その高揚感は今とは違う幸せをブルーへと与えてくれる。

「しかし、不思議なものだな」

 態と声に出して自嘲する。
 誰にも想像などできなかったはずだ。ミュウの長ソルジャー・ブルーが生のある間にこのような穏やかな時間を過ごすことになるなんてことは、決して。
 本当ならばあってはならないことなのだろう。ソルジャーの名を冠する者は、その全てを同胞に捧げる義務がある。
 だが、なぜかこの現実を知っても長老をはじめとする人々はブルーを睨みすらしない。
 だから少々調子にのっておどけても見せたのだが、それでもただ少しの溜め息を漏らすに止まっている。
 ……哀れみ、だろうか。
 そう思いたくはなかったが、彼らの態度は明らかにブルーの残り僅かな生の時間を意識したものだ。その感情はどんなにガードされていても、態度でブルーへと伝わってくる。
 それを怒るつもりはない。むしろ都合がいいくらいだ。その哀れみのまま、ブルーの言葉を素直に受け入れてくれるならば。

「…………」

 ブルーは無言で眼下のジョミーを見つめた。
 彼らがジョミーを受け入れてくれるのなら、哀れみなど本当にどうでもいいことだ。
 ジョミーが少しでも楽に幸せに生きられるのなら、どうだって……。

「ジョミー、ゆっくり休むといい」

 微かに頬を緩ませながらもう一度ジョミーの額を撫でて、ブルーは立ち上がった。離れた負荷にぎしりとベッドが鳴く。
 立ち上がると同時にぐらりと一瞬視界が水面が波打つように揺らいだ。いつものことだ。これまでの時間が海となり、波のようによせてかえる。今は浅く土をさらうだけだ。だが、これが嵐になれば津波となってやってくるのだろう。そして全てをのみこむ。……それが、終わりだ。
 ブルーはぼんやりとした感覚のままベッドを離れた。自室に戻ろう、少し休まなければ。壁に手をつき、指先でドアのスイッチを探る。ピアノを弾くように彷徨った指先がそれを見つけだし、軽い空気音とともにドアが開いた。
 通路に出ると、もう朝が近いのだろう、朝特有の薄明かりが通路に流れ込みブルーを包み込んだ。その通路をブルーはゆっくりと歩む。ダクトから流れ出る微風がブルーのマントを緩やかに翻した。
 遠い昔、このシャングリラを地球に近づけようと、ぼくらはどれだけ躍起になっただろう。完全なる密封空間であり、暮らしている分には外など関係ないというのに、穏やかな朝をつくり、眩しい昼をつくり、静かな夜をつくった。さらには天候までもつくろうという案まで出たが、艦への負荷があまりにも大きくそれは廃することとなった。
 地球へ行きたかったのだ。踏んだこともない地球の土に、吸ったこともない地球の空気に、触れたこともない地球の雨に、強い憧れと思慕を抱いていた。
 我々の家は地球だと、誰かが言った。母なる星だとも。しかし行ったこともない、場所もわからないというのにそこが家なのだろうか。それが母なのだろうか。
 だが、それでも憧れる。夢を見る。家は、母は温かく迎えてくれるものと期待をしている。きっとそれは全て叶わないのだろうと身体の芯まで知っているというのに止められない。それはグランド・マザーの思惑か、それとも地球を離れる以前から人間として生まれつく者全てにある刻印か。
 思考を巡らせる間に自室へと辿り着いた。どこをどう曲がったのかすら覚えていない。まさか誰かに会ってはいないだろうかと一瞬不安になる。悪い癖だ、考え始めると止まらなくなる。
 ブルーは溜め息混じりに自室へと足を踏み入れた。そこは通路とは違い、暗闇が満ちていた。ブルーのためにと夜を保った空間の最奥には天蓋付きのベッドが一つだけ据えられている。そこへ歩み寄り、ゆっくりを腰を下ろす。ベッドはやわらかく包み込むようにブルーを受け入れた。
 休もう。
 僅かに痛み始めた頭に手をあて、ゆっくりと身体を横たえる。引き摺られたマントがシーツに絡むのも構わず、そのまま身を落ち着けて瞳を閉じた。
 お休み、ジョミー。
 異なる部屋で眠る愛しい者へと呼びかけ、身体を眠りへと落とした。

 

 ソルジャー、とか細い声で呼ばれた。遠慮するように小さな声は耳に心地よく、ブルーを覚醒まで導く。

「ソルジャー」

「う、ん……ジョミー?」

 僅かに痛む身体を捻り、手元を空に泳がせるとすぐに彼は捕まった。金色の髪が光に慣れない目に痛い。だからそのまま腕に抱きこんだ。

「うわっ、ソルジャー!」

 きゅうきゅうと抱きしめると、服の背中部分が握り締められる。

「寝ぼけてるだろ!?」

「いや、起きてるよ」

 必死に身体を離そうともがくので、最後に頬の少し高くなったところに口付けてから腕の力を弱める。
 そして相手の希望通り身体が離れると、ぐしゃぐしゃに乱れた金髪でジョミーがブルーを睨んでいた。

「久しぶりに熟睡してると思えば!」

 その可愛い顔はわざとなのかい?、そう問いたくなるほど可愛い顔でジョミーは頬を膨らませた。
 だが、その前に問わなければならないことがあった。

「熱はもういいのかい、ジョミー」

 ブルーがそういって頬が膨らんだままの顔の額を手で撫でると、ジョミーは柔らかに微笑み瞳を閉じた。

「もう、あれから二日経ってる。平気だよ」

 すぐに瞳を開いたジョミーはさらに、本当に熟睡してたのかぁ、と意味深に笑った。そしてブルーの髪をぐしゃぐしゃに混ぜた。どうやら頭を撫でているつもりらしい。その指先は硬く、慣れない手つきが少しもどかしさをブルーに抱かせた。そして同時に心が満ちる。
 気持ちが良いな……。
 ブルーはベッドの上に座り込んだジョミーを引き寄せ、その喉元に口付けた。
 だがその喉が笑いに震える。

「ソルジャー、それじゃあ甘えてるナキネズミと同じだ」

「甘えているんだよ、ジョミー。同じでいいんだ」

 ブルーのその答えにジョミーは一頻り笑い、補聴器がずれるほどぐしゃぐしゃにブルーの髪をかき回した。

「これで満足? ソルジャー」

「……ああ、そうだね」

 そう言って身体を離すとジョミーはまた笑った。
 楽しそうなジョミーの声がずれた補聴器の隙間から直に耳へと流れ込む。細くほそく聞こえる笑い声は、ブルーの頬をやわらかく解してくれる。

「ジョミー」

 ブルーは補聴器を外し、枕の上にゆっくりと据えた。その行動にジョミーが不安げにブルーを見る。

「もっと呼んでくれないか」

 は?、と首を傾げるジョミーの肩に額を埋める。少しでも近くでジョミーの声が聞きたかった。

「ジョミー、ぼくの名前を呼んで」

 呆れたような溜め息が耳に触れる。そして、息を吸い込むような微風。

「ソルジャー、ソルジャー・ブルー」

 小さな声が耳から、そして骨から伝わってくる。

「もっとだ、ジョミー」

 ええ、と非難の声。なだめるように首筋に口付けると、ブルー、ともう一度名を呼んでくれた。
 ああ、これで頑張れる。もう少しだけ、ソルジャーでいられそうだ。
 満足に深く息を吐き出すと、耳元を再び息を吸い込む微風が掠めた。
 もういいよ、と声をかける前にジョミーが口元を動かしてしまう。

「ソルジャー・ブルーっ!」

 力いっぱいの大声が耳を突き抜ける。声、というよりその迫力で耳がじんじんと痛んだ。

「ジョミー。いきなり、それは……」

 外して置いたはずの補聴器を無理やり耳に着けられる。痛みに瞑っていた目を開くと、顔を高揚させたジョミーに睨まれた。

「起きた? 起きたよね」

 聞こえないながらその目力に圧倒されてとりあえず頷いた。その隙に補聴器を元の位置に正す。これでちゃんと声が聞こえるはずだ。

「ジョミー?」

「どれだけ恥ずかしいことをさせたのか、わかってるんだろうね。ソルジャー」

 ぐぐっとジョミーの眉間に皺が寄る。どうやら本当に怒らせてしまったようだ。
 だが、やはり頬を膨らませて怒るジョミーを可愛いと思ってしまうブルーにとって、その姿はあまり効果がない。
 ブルーは困ったような笑みしかジョミーに返せなかった。

「ソルジャー!」

「ああ。悪かった、ジョミー」

 言いながら、耐え切れず笑みが零れる。ジョミーが深く溜め息をついた。

「ソルジャー、マントぐらい取って寝たら? 皺しわだ」

 ああ、と振り返ると肩から伸びる長いマントにはアイロンをかけたようにくっきりと山渓が出来上がっている。

「それに身体、痛くならない?」

 確かに言われてみれば、起きるときから身体の節々が異様に痛んでいた。そんなことはジョミーがいることですっかり忘れていたけれども。

「気をつけるよ」

「……うん」

 なにか異様な、意味をもった頷きだった。
 ジョミー、と呼びかけて首を傾げるとその肩に手がかけられる。黙って見ていれば、ジョミーはいましがた話にあがったマントを外しているようだ。

「ジョミー?」

「まだ寝ぼけてるみたいだからもう一度寝といてよ、ソルジャー」

 言うが早いか、マントが取り外されジョミーがベッドから立ち上がった。
 そして長座したままの身体に無理やりシーツが被せられる。

「もう一度起こしにくる。だから今度はちゃんと起きてよ」

 ブルーが呆気にとられている間にジョミーは背を向けて行ってしまった。
 だがその背中からわずかに漏れた思念波をブルーは機敏にキャッチする。
 せっかく治ったのに……。
 いじけたような拗ねたような、そんな思念波を受けながらブルーは再び枕に頭を埋めた。
 またあの声で起こされるなら、もう一度眠るのも良いかもしれない。
 お休み、ジョミー。
 愛しい者へと呼びかけ、ブルーは身体を眠りへと落とした。

written by ヤマヤコウコ