歩きながらシロエは僅かに痛む左肩を押さえた。
くそ、なんでこんなことで僕が怪我をしなければいけないんだ。
要因はただのチーム内での諍いだ。訓練での独断行動に腹を立てたチームメイトがシロエに迫り、その言い争いの中で肩を傷つける羽目になった。
役にも立たない人間に代わってシロエが訓練の全てを取り仕切ってやったのだ。それのどこが悪い、悪いとするならそれは彼らの頭の方だ。マザーマザーと喚きながら、自分たちの実力のなさを棚に上げてシロエの協調性のなさを罵る。なんて馬鹿らしいのだろう。そんなにマザーが正しいのなら、実力でそれを示して見せろ。
……そして怒りに任せた思考を止める。自分の想いを言い切ってみれば、なんて幼稚なのだろう。シロエは自分を落ち着けようと小さく息を吐き出した。
自分の幼稚さを知っている。意地を張っているだけだとも思う。
だが、その幼稚さをシロエは捨てきれないのだ。それまで捨てれば、微かに残る幼い日の記憶までも消えてしまいそうな気がする。
グッと肩に当てた掌に力を込めた。熱をもった傷がじわじわと痛む。
それだけは嫌だ。大切に、大切に残してきた僅かな記憶だ。
しかしもう両親の顔も思い出せない。街の景色も、好きだったものも記憶は薄れていく。
それをなんとか留めようと、覚えているものを書き留め、データバンクから自身のデータや故郷エネルゲイアの資料を引き出しては確認をする。
僕は覚えているぞ、と。
しかし、それを繰り返すたびに感じるのだ。セキ・レイ・シロエへ偽りの記憶を埋め込んでいるのは、セキ・レイ・シロエではないかと。
覚えていると思い込ませ、偽りの記憶を作っている。それでは記憶を奪ったユニヴァーサルコントロールとさして変わりない。
どうすれば、いい。
シロエは肩から手を落とし、テキストの合間に混ぜて持ち歩いている絵本を指先で撫でた。
どうすればいい、ピーターパン……。
シロエはゆっくりと歩調を落とし、やがて立ち止まった。ちょうどそこは広間の二階、目の前には贋物の地球が映し出されていた。シロエはいつのまにか俯いていた顔をあげ、その青い星を見上げる。
地球はネバーランドよりもいいところだと言ったよね。パパ……。
その記憶も今ではあまり信じられない。
もしかしたら、それすらマザーによる記憶への介入であり、地球への思慕を深めるためのものなのかもしれないと思えてしまう。
……最悪だ。自分の大切にしてきた記憶さえ疑っていては、なにも信じられるものなどなくなってしまうではないか。
「おい、なにぼーんやりしてるんだよ、お前!」
「っつ!」
力いっぱい肩を叩かれ、思わずシロエは声を漏らす。
相変わらずの馬鹿力だ。サム・ヒューストン!!
「あっ、わり! なにお前怪我してるのかよ」
「……」
答えてどうなるものでもない。それに、この人がいるということは、必ずあの人も居る。正直、今は会いたくはない。
シロエはサムを一瞥して地球に背を向けた。
「おい、シロエ!」
サムの怒鳴り声が肩の傷に響いた。あの馬鹿力のせいで少々悪化してしまったようだ。
シロエは足早に通路を歩いた。少しでも遠ざかりたい。会いたくない、あの人には。
だが、それは叶わなかった。
「おい、シロエ」
先ほどのサムと同じ言葉がシロエの背にかけられた。サムよりも幾分低く、落ち着いた声だ。
彼からは逃げられまい。シロエは小さく溜め息をつき、彼を振り返った。
「なんですか、キース先輩」
できるだけ余裕を、生意気さを含めた顔を作る。だが、なかなか顔が上げられない。
ばか、ちゃんとしろ。つけ入られたいのか。
自分を励まし、なんとかシロエは顔を上げた。そして見えたキースは急いで追ってきたのか、わずかに髪が乱れていた。
「怪我を、しているそうだな」
息切れ気味にキースは言葉を繋ぐ。
予想外だ。どうしてこの人がそこまで僕に構うんだ。
「医務室へ……」
「そんなに酷いものじゃありませんから、ご心配なく」
動揺したままにシロエが背を向けようとすると、後ろからその二の腕が掴まれる。
「意地を張ったところで、マザーにコールされるだけだ」
意地とマザー、この二つの単語にシロエの思考が真っ赤に染まり、動揺が怒りに変わった。
どうして構う。マザー譲りの正義感ばかりだ、この人は!
「手当てくらい自分で出来ます。離して下さい!」
力任せにキースの腕を振り払う。
眉間に皺をよせ、どこか悲しそうなキースの顔がシロエを見た。
なんで僕に構うんだ。どうして。
「シロエ」
「……」
その顔に耐え切れずシロエはキースに背を向け、衝動のまま言葉を口にした。
「どうして、そんなに僕に構うんですか」
「どうして……?」
言頭を繰り返して、キースはしばし思案するように黙ってしまう。
馬鹿なことを聞いてしまった。答えなど、聞いたところでどうしようもない。
どうして自分はいつもこの人には調子を崩されるのだろうか。余裕を持ち、つけ入られないようにと細心の注意を払っても、キースの前では自分の幼稚さを自覚することばかりしてしまう。
「……仲間だからだ、シロエ」
そしてキースは繰り返す。
「仲間だからだ」
まるで模範解答のような答えだ。だが、なぜかシロエはその言葉に苛立ちを覚えなかった。代わりに微かな喜びが心にわきあがる。
……仲間でありたいと願っているのか、僕は。
「……行きます」
自らに湧いた感情を振り払うようにシロエは力強く足を踏み出した。
なんてことだ、僕が。もう意地など張らずに楽になりたいと思っている……。
嫌だ。そんなことは。
シロエは再び肩を自らの手で握り締めた。痛みは諍いの証、戦いの証だ。僕は彼らとは違う、対立する者。
「いつでもいい、手当てする気になったら声をかけろ」
甘く優しい言葉に眩暈がする。
従うものか、そんな言葉に!
シロエは肩を握り締めたまま、通路を駆け出した。