「行ってください」
そう言って背を押すリオの手が震えていた。
肩越しに僅か振り向いてみるが、俯いたリオの顔は見えない。
「……だが」
言葉を返すと背にあった手がグッとマントを握り締めた。
「後のことは私が出来る限りなんとかします」
なんとか、と言ったところでジョミーにしかできない、そしてしなければならないことは山とあった。
だが、リオの手はなにかに耐えるようにぎゅうぎゅうとジョミーのマントを握り締めて放さない。
そしてリオは顔をあげた。
「いま、あなたに倒れられては敵いません。ちゃんと休んでください」
いつもとは違う作られた笑顔を向けられる。そうなってはジョミーもそれを拒めはしなかった。
強硬な態度を取るリオは強い。そして、そういったリオに対しジョミーが未だに弱いということを、リオ自身もわかっているのだろう。
これ以上は争うだけ無駄だろう。諦めてジョミーは小さく溜め息をついた。
「なにかあれば、すぐに呼んでくれ」
そう言わざるをえない。
「大丈夫です」
言い切られ、背を突き放される。そして踏み出した一歩でドアが静かに開き、目の前に薄闇の室内が広がった。
「いってらっしゃい」
柔らかい声と共に小さく手をあげたリオが閉じる扉の隙間へ消える。
それを最後まで見つめたジョミーは、身体を室内へ向け改めて立ち尽くした。
大きく息を吸い込む。
ここに、あの人がいる……。
忙しさに紛れさせ、懸命に消そうとしていた想いがジョミーの胸のうちで脈打ち始めた。
あの人が、いる。その事実は昨日と変わらない。
けれど、違う。昨日とは違うのだ。
あの人が「目覚めて」ここにいる。
吸い込んだ息を吐き出す前に、ジョミーは青の間の通路を駆け出していた。
涙で景色が揺らいで見えた。だが、自分が行わずとも灯っている明かりがジョミーを部屋の奥へと導いてくれる。
早くはやくと気持ちばかりが急いで背中を押した。反面、一連の事件と事後処理で疲労しきったジョミーの身体は一向にスピードを上げてはくれない。
そして、とうとうジョミーは足を縺れさせ前のめりに転んだ。
「う、わっ」
顔面からの衝突はなんとか避けた。だが、転んだ事実に変わりはない。
もし、これを見られたら……。そう思う前に頭上から微かな笑い声が聞こえた。
状況を全く関せず、胸が大きく脈打つ。
柔らかく優しく穏やかで、すべてを包み込む大きさをもった声。
息苦しささえ感じながら、ジョミーはゆっくりと視線をあげた。
「ブ、ルー……?」
まず地面に垂直に立った足元が目に入る。床に弛んだマントから月日を重ねた威厳が伝わってくるようだ。
針の振り切れた量りのように不安定な鼓動を抑えながら、じわじわと身体を起こす。
ふらつく事を拒む細い脚、ピンとした背筋を支える腰、抱きしめられれば温かな胸。
そして、柔らかな微笑……。
ブルーの顔を惚けたようにジョミーは見つめた。何か言おうと口を開くが、乾ききった咥内はまったく動いてはくれなかった。
そんなジョミーの目の前へ手が伸ばされる。
「大丈夫かい?」
そして、ジョミー、と続けて名が呼ばれれば歯止めは効かなかった。
「ブ、ルー……!」
ジョミーは差し出された手ごと、ブルーへと夢中で抱き着いた。
「……ジョミー!」
驚いたような声、少しして小さな溜め息。それとともに、ジョミーが握り締めてしまったのとは反対の手が髪を優しく撫でる。
「ジョミー」
頭上からかけられる優しい声、握り締めた細い指。ブルーの大腿に顔を埋めてジョミーは何度もブルーの名を呼んだ。
「ブルー、ブルー、ブルー」
「はいはい。なにかな、ジョミー」
握り締めていた指がしっかりと握り返される。ゆっくりとブルーを見上げると滲んだ視界にしっかりとブルーの微笑が映りこんだ。
「おか、えり……」
躓きながら口にするとブルーは意外そうな顔をして、すぐにそれを笑みで崩した。
「ただいま、ジョミー」
その顔と声にまた涙が溢れ出す。それをブルーの身体へと擦りつけると、ブルーはまたジョミーの金髪を梳くように撫でた。
この感触、この温もり、この匂い。求め続けていながら、いつの間にか諦めにも似た「慣れ」によって止まっていた気持ちが溢れ出でる。
何度も名を呼び、ジョミーはブルーのマントごと上着を握りめた。少し腰を屈めたブルーはそれをただ受け入れていた。そしてジョミーが落ち着くのを待つようにぽつりぽつりと言葉を連ねる。
「知っていたよ、ジョミー。聞こえていたんだ、すべての君の声が」
「はじめは夢なのかと思った。それまで誰の声も届きはしなかったから」
思念の強さのためかな、笑うブルーをジョミーは一層強く抱きしめた。
もう行かないで。もう放さない、離れない。
そのジョミーの行動をどうとったのか、ブルーは改めて笑った。
「そうだね。ぼくと君の思念が強く繋がっていたからかもね」
ブルーの布に包まれた指先がジョミーの頬筋をゆっくりと撫でる。
「泣き止んで、とは言わないよ。ぼくだって今にも泣き出したいくらいに嬉しいんだ」
そして指先でちょいちょいとジョミーの埋もれ損ねた目尻の涙を拭った。
「でも、ジョミー。そろそろ、ぼくにもジョミーを抱きしめさせてくれないかな」
その言葉にはっと気付いて顔を上げる。するとブルーは、否、ブルーもジョミーと同様に瞳に涙を溜め、ジョミーを見下ろしていた。
「やっと……、顔が見えた」
ブルーの目尻が愛おしそうに歪み、その両端から涙が伝い落ちる。
「……っ、ブルー!」
倒れるように膝を折るブルーへジョミーは真正面から飛び込んだ。その身体がすべてブルーに包まれ、優しい匂いがジョミーを満たす。
「ジョミー……」
嗚咽のような声とともに抱きしめられた肩に力が込められる。
「ジョミー」
涙に潤んだ声とともに、首筋からブルーの指に髪を遊ばれる。
「……ジョミー」
幸福の染み渡った声とともに、前髪に唇が触れる。
すべてがブルーだった。
「ブルー……っ」
なんで今まで寝てたんだ。なんで今まで触れ合えなかったんだ。なんで、今まで……。
ブルーの胸元で恨みをぶつける様にジョミーはその手を握り締め、ブルーの首元へ顔を押し付ける。
だが口から零れたのは、全く異なる言葉だった。
「ブルー……、だいすき」
言えば、止まりかけていた涙が再び溢れ出す。そのジョミーをブルーはいっそう強く抱きしめた。
「ぼくも、だいすき、だよ。ジョミー」
大好き、という言葉を照れながらブルーは言い、それを誤魔化すかのようにジョミーの頬に軽くキスをした。
それがまるで、顔をあげて、と言われたかのようで、ジョミーはゆっくりとブルーを見上げる。
ずっと、ずっと見つめ続けていた眠ったままの彼とは違う、少し高揚した頬と柔らかに微笑む口元。
引き付けられるようにジョミーはブルーへと顔を寄せる。すると、まるでブランクを感じさせずにちゃんと二人の唇は重なった。
こっそり触れたのとは違う、温かく柔らかな唇。触れただけで、思考が蕩ける。
だが、そんなジョミーに対して、ブルーはまるでその感触を楽しむようにジョミーの唇を食み、舌で弄んだ。
そしてジョミーも、これはぼくのものだ、と主張するようにブルーの唇へ夢中でしゃぶりついた。