冷め切った紅茶の入ったカップをブルーは口元へ運んだ。ぐいと飲みきるべく煽る。すると唇に髄まで味の搾り取られた茶葉が張り付いた。あまりに味気のない苦さに、ブルーはそれを紙布巾で拭い取った。
ブルーは布巾に染み付いた茶色の液と出涸らしの茶葉を見つめた。まるで自分のようだ。精も根も失って、弱くなった身体はまるでこの茶葉のように苦いのだろう。ブルーは紙布巾をぎゅっと握り潰し、席を立った。
「もう、行くよ」
誰も居ない室内へ声をかける。この部屋の主であるハーレイは定例の教員会議へと行ってしまっていた。今頃は各教員の間に立たされ、胃を痛めながら双方の攻撃を受けているのだろう。
出て行く際にハーレイがデスクへと置いていったものをブルーは手に取った。この部屋の鍵だ。
それとともに自らの鞄を手に、ブルーは薄暗い廊下へと身を晒した。夕方の人気のなくなった廊下を風が自由自在に通りぬけ、ブルーの身体を冷やした。
早く帰ろう。
ブルーは電灯を消した室内と廊下を繋ぐドアを閉ざし、固く鍵をかけた。そしてドア脇に設置されている投書箱へ手にしていた鍵をほおりこむ。
投書箱には念入りにも南京錠がかけられていたが、長年使用されているのか箱自体はもうボロボロだ。これでは鍵など意味がないも同然だと思うが、それでもハーレイは退出時の施錠を徹底してブルーへと要求した。主のいない部屋に居座る以上、ブルーも拒否はできなかった。
そういえばカップなどの片づけをしそびれたと、そこでやっと思い出す。だが鍵は既に落書きばかりの投書と共に箱の中だ。
まあ、ハーレイが居ればすべてやってもらうものだしな……。
頼んだぞ、とブルーは箱を小突いてその場を離れた。
リノリウムと上履きが擦れ、偶に悲鳴のような音がする廊下をブルーはただ無言に歩を進めた。
その脳裏に出涸らしの茶葉が揺らめいた。まるで枯渇した湖跡に落ちる枝のように細い形を歪め、茶漉しの網目を通り抜けた苦い茶葉。
あんなにもいい香りと深い味わいを持っていたのというのに、すべてを搾り取られたそれはただ悪感を与えるしか能がない。
ぼくの身体もすでに生きる力を枯らしてしまった。
苦々しい想いにブルーは顔を歪め、自らの胸へ手を当てた。その手をぎゅっと握り締めると制服のタイが引っ張られ、僅かに喉が締め付けられた。
ブルーは足を止め、寄りかかるように中庭へ面する窓へ近づいた。闇の近づく校内で、所どころに煌々と灯りがともされていた。どの窓もカーテンは引いていなかった。
最も広く大きな灯りはハーレイのいる教員会議だろう。遠目にもゼルが席を立ち上がり、また何かを糾弾しているのがわかり、ブルーは微かに頬を緩ませた。
ぼくの生、ぼくの想い。それを引き継ぐ者……。
ブルーは視線を彷徨わせ、その部屋を探した。
まだ、いる。
ブルーはガラス越しにその部屋の灯りを指でなぞった。
人影は見えなかったが、灯りは煌々とともっていた。
「ジョミー……」
急速に恋しさが募り、ブルーはぐっと脚へ力を籠めた。そしてその灯りの元へ再び足を進めた。
走ることなどもう忘れてしまった身体で、ブルーはゆっくりと廊下を歩んだ。他から見れば優雅と捉えられる姿だったが、ブルー自身はもどかしくて仕方がない。だがそれを表情に出し、他のものに軽んじられるのは御免だった。ブルーのプライドはどこまでも高い。だからこそ、ソルジャーなどという面倒な仕事もこなすこそが出来たのだ。
だが、そのためにすべてを捨ててしまった。
ブルーは前方の床に灯りの細い糸を認めた。引き戸の僅かな隙間から漏れる室内の灯りだ。廊下はすでに暗く、表示板は見えなかったが、ブルーの目的の場所はそこで間違いないようだった。
ブルーは確認もせず、ノックもせずにその戸を開いた。
眩しい灯りがブルーの青い瞳を刺した。一瞬視界が白く包まれ、チカチカと瞼の内が瞬いた。咄嗟に手をかざすが、光に目が慣れるまでにはしばらく時間がかかった。
ブルーは視界が閉ざされている間にジョミーの名を呼び、室内へと足を踏み入れた。
「ジョミー」
しかし、視界のない状態でふらついた身体はあっさりと引き戸のレールに爪先を引っ掛けた。ブルーが声をあげる間もなく、身体が前方へと倒れる。
「ブルー……っ」
ジョミーの声に、ブルーは慌てて支えるものを求めて腕を彷徨わせた。だが指先が壁面に触れただけで、掴むことは叶わない。代わりに触れた指先はカチリと音を立てて、視界を奪った元凶である灯りを落としてしまう。
なにも捉えられない無防備な状態で、ブルーは倒れた。耳には大きな音が響き、キィンと痛んだ。だが、耳以外には大した傷みもない。ブルーは倒れる際に思わず瞑った瞳をゆっくりと開いた。今度は暗闇でなにも見えない。
「ジョミー……?」
名を呼ぶと、身体の下がもぞもぞと動いた。ブルー、と厭きれた声が返ってくる。
耳を痛ませた大きな音は、ジョミーが座っていたパイプ椅子の倒れた音だったのだろう。
ブルーはジョミーを潰さないようにと視界のない中で、ゆっくりと慎重に身を起こした。
「ジョミー、すまない」
「いいよ。ブルーこそ怪我はない?」
闇に慣れ始めた瞳が、外からの僅かな光を頼りにジョミーの身体を縁取った。
金の髪がほのかに光を反射して、キラキラと艶を返す。
まるで、生の光だ。
ブルーはその光を胸のうちに抱え込んだ。わっ、とジョミーが驚声を漏らす。
「ありがとう。大丈夫だ」
爽やかな汗の香りがブルーの鼻腔をくすぐった。生々しいジョミーの香りは、まるで紅茶のように
華やかさを持っていた。
ジョミーも、あんな深い味わいがあるのだろうか。
ふと思い立って、ブルーは胸の内にあったジョミーの身体をなぞり、その顎を探り出す。その行動の先を悟ってかジョミーは慌ててブルーを制止する。
「ちょっ、ブルー。待ってよ。リオが、戻ってくる……かも」
だがその声は、ブルーが顎の淵を指先でなぞり、支え上げると弱々しく萎んだ。
「ブルー」
名を呼ぶ吐息がブルーの頬を撫でた。その吐息ごと、飲み込むようにブルーはジョミーへ口付けた。すぐに閉じていた唇を上下に割いて、その咥内へ舌を潜り込ませた。
すると、深い苦味がブルーの舌を刺激した。先ほどブルーが口にした茶葉とは異なる、あまい苦味だ。
ブルーは思わずくすりと笑い、唇を交わす合間にジョミーへと問いかけた。
「ジョミー、は……苦いのが、好き、なのかい?」
え、と声にはならない戸惑いの吐息がブルーの鼻先を掠める。甘いカカオの香りがした。
濃度の高いビターチョコレートを作業の合間に摘んでいたのだろうと簡単に予想がついた。ブルーは唾液に濡れたジョミーの唇を舌で一周した。
そして、もう一度問いかける。
「ジョミーは苦いのが好きなのかい?」
「甘いのも、苦いのも好き……だよ」
その答えに満足して、ブルーは素直に答えたジョミーの頬へ口付けた。
「ブルー」
咥内とは相反して甘い声が名を呼んだ。とろんと溶けそうな瞳が僅かな光を反射し、ブルーを見上げていた。
「ジョミー」
名を呼び返し、ジョミーの身体を抱きしめる。どんなに力を籠めて抱きしめても折れそうもないしっかりとした身体。生々しい汗の香り。強い意思と未来へ向かう生命力。ブルーの失ったものをジョミーはすべて持っていた。
ジョミーの腕がブルーの背中に回された。そしてその背中を優しくなだめるように撫でた。いつもブルーがジョミーへしてやっていることだ。ジョミーはいつの間にか、ブルーの行動すら吸収していた。ソルジャーの仕事も、キスの仕方も、まるで湯に染み出す茶葉の色のように自然に吸出し、自らに溶け込ませてしまう。
だが、ジョミーに溶け込むのなら、いいかもしれない。
「ブルー?」
「大丈夫、リオならまだ戻ってこないよ」
先ほど覗いた会議の室内を思い起こす。その壁際には微笑みを湛えながらも困りきったリオの姿がしっかりとあった。あの様子では会議もしばらくは終わるまい。
ハーレイも念には念を入れて隠したいものがあの部屋にあるのかもしれないな。
ジョミーに悟られぬようブルーはこっそりと笑んで、背後に腕を彷徨わせた。指先が戸を辿り、その淵を探り出す。そして見つけた突起を捻ると、カチリと暗闇に音が響いた。
その音を区切りに、ブルーはジョミーを抱きしめる腕を緩め、再びジョミーの顎を両手で持ち上げた。
「もう少し、その苦味を味わわせてくれないか」
問いかけておいて答えも聞かずに、ブルーはジョミーの唇を自分の唇で塞いだ。