どうすれば出し抜けるだろう。
首もとのタイを緩めながらシロエは、ふう、と息を吐き出した。凭れた石の壁は冷たく、含んだ冷気をそのままシロエの背中へ伝える。背中とともに後頭部も壁に密着させ、シロエは視線を上げた。正面の石壁には所どころには亀裂が走り、それを補修したのだろう、色の違う箇所が幾つか目に付いた。
立て直してしまえばいいのに、とシロエなどは思う。だが、西暦から続く名家の旧宅を改修したというこの校舎は学園長の自慢の種であり、保護者にもえらく評判がいい。しかも、改修は未だに怠らず、内部は最新の機器で満たされている。それも学園長指定のオートクチュールだ。ウエストミンスターに似た校舎に合わせた似非ゴシック。これが一番シロエの気に障る。なんたって無駄が多いのだ。妙な突起に妙な模様。物は使えればいい。嗜好品の美しさは認めるが、実用品にゴテゴテした飾りは必要ない。シロエはそういう考えだった。
シロエはもう一度小さく吐息を吐き出し、解いたタイの絡んだ手元を見つめた。指に絡みついた臙脂色のタイはシロエの吐息を受けてふわりと靡く。
これがあるのが悪いのか。
シロエが通う私立シャングリラ学園の制服は、中等部が細身の黒スーツにリボン・タイ、高等部が鈍色のスーツにクラバット型のタイだ。これも校舎と同じく学園長の自慢の一つだった。
十四歳のシロエと、十六歳のキース・アニアン。たかが二歳の歳の差だというのに、中等部と高等部では服装からその違いを示されてしまう。
先のテストでもそうだ。点数で競おうにも学年が異なっては意味がない。スポーツでもそうだ。年齢による体格差があるのではやはりそれが正当な差とはいえない。
なんならいいんだ。どうやったら二年という差を埋められる?
だが、どうしても産まれた時は変えることなどできない。仮にタイムリープできたところで無理な相談だろう。
シロエはまた溜め息を吐いた。わずかに吐息が白く染まり、周囲の冷えを教えてきた。ぶるりとシロエの身体が震えた。
ぼくは現実に抗えない……。
シロエは背を曲げて屈みこみ、足元に置いた鞄からマフラーを取り出した。ママが編んでくれたタイと同じ臙脂色のマフラーだ。それをくるりと首に巻き、寒さに肩をすくめる。
いまもまさにそうだ。中等部の方が授業終了時間が早いために、こうして高等部の廊下に立ち、キース・アニアンを待っている。
情けない……。
そうは思うが、やはり二年の差は覆せない。二年という差を越えて、対等に――少なくとも年下であるシロエが対等だと思える方法で勝負しなければ。
壁の向こうがざわめいた。
終わったかな? シロエはそろそろと教室の前後に配置された扉へ近づく。そしてちょうどシロエの頭部あたりに配された磨りガラスから内部の様子を窺った。
ガタガタと椅子の動く音、少しずつ広まる声。じっと感覚を研ぎ澄ましていると、突然に目前の扉が開いた。
「わっ」
思わずシロエは仰け反る。目の前に現れたのは古典のゼル先生だ。基本的には高等部の教員だが、例外的に中等部で古典文法の授業をしているためシロエにも面識があった。
「おや。セキ君、じゃったかな? こんなところでなにをしておる」
シロエが言い澱むとゼル先生は卵型の頭をシロエへ近づけ、訝しげに眉間へ皺を寄せた。なんとなく卵の先がいつもより尖ったようにも見えた。
「え。う。あの、えーと」
「なんじゃ、はっきりせんかい」
いつの間にか教室内の視線がすべてシロエとゼル先生に注がれていた。その中心でシロエはどう言うべきかと口をパクパクさせながら言葉を探した。
「キース・アニアンを待っていた」と事実を言葉にしてみれば、まるでキースの信望者のようだし。「勝負しに」では、なにか危ないことではないかと疑われるだろう。なんといってもゼル先生は校内の風紀に厳しくて有名だ。ついでに怪しい要素は種から摘むの信条とかで、ときに目に付いた人間を片端から相談室という名の説教部屋に問答無用で連れ込むという。
どう言うべきなんだ……!? シロエが混乱していると、その背中側からにゅっと腕が伸びた。
「……っ」
そしてシロエが声も出さないうちに、その太い腕はシロエの首へ回された。あまりに突然で乱暴、無計画な回し方でわずかに息が苦しかった。
「ゼル先生、こいつキースを待ってんですよ。もう毎日まいにち中等部の授業が終わってからずっと。健気ですよねぇ」
およよ、と太い腕の主であるサム・ヒューストンは、ゼル先生に対してわざとらしい嘘泣きまでしてみせる。あまりの屈辱にシロエはサムの腕を引き剥がそうともがいた。だが、さすがに年上で体躯もしっかりとし、運動部で鍛えているサムには敵わない。
「ちょっ、勝手になに言ってるんですか!」
「じゃあ、何だって言うんだよ。ほかに用事なんかあったか、シ・ロ・エ君?」
音を区切って名を呼ぶ態度がさらに頭にきた。シロエはもがく力を一瞬緩め。そして一気にサムの腕を振り払った。サムがわずかによろめく。
「まったく、乱暴ですね」
シロエはサムを横目に、首もとのシャツを調え、マフラーを巻きなおした。
「……まあ、それだけ仲が良さそうなら、そういう用事なんじゃろ。くれぐれも危ないことはするんじゃないぞ」
その様子を見ていたゼル先生はそう言って呆れ気味に笑った。周囲とともにシロエはほっと胸を撫で下ろす。ゼル先生の機嫌が良くて良かった。
「セキ君、先日のテストでは君ただ一人が満点じゃった。また次の授業でな」
「あ、はい……」
ぽんとシロエの肩を叩き、ゼル先生はわずかに曲がった背を揺らしながら教室を出て行った。そしてゆったりとした足音が遠のくと、教室内に大きな溜め息が溢れた。
た、助かった……。シロエもほっと息を吐く。だがその隣りでサムはつまらなそうに呟いた。
「こういうとき、優等生は便利なもんだなぁ」
「人徳ってやつですよ。あなたには無さそうですけど」
そうシロエが言い返すと、サムは「ああ、そうですか」と肩を竦めてみせる。そして、まあいいかと小さく溜め息を吐いた。その普段とは違う態度にシロエは気を留め、サムを注意深く見上げた。
「そうそう。キースならいないぜ」
シロエの視線に気付いたサムは、一瞬思案するようにシロエから視線を外し、すぐにシロエを正面から見下ろしそう言った。 さらに「だからゼル先生の機嫌が良かったんだよなー」と付け加える。
「いないって、早退ですか? 朝には見かけましたけど」
訝しげにシロエが問い返すと、サムは言いにくそうに頭を掻く。その微妙な表情にシロエは首をかしげた。
「午後イチの体育でなぁ。キースのヤツ、あのマザー二号だか三号だか引き連れてサッカーやっててよ。んで、ボールがマザーに直撃して暴走。キースを殴り飛ばして、校庭の真ん中でボン! キースは怪我はないみたいだけど脳震盪で保健室だよ」
サムの言葉が進むにつれシロエは頭が重くなった。そして最後の言葉でとうとう両手で顔を覆った。
なんてバカをぼくは相手にしてるんだ。シロエはその話とともに自らが恥ずかしくなった。
「シロエ。あいつ成績はいいけど、ほかはただのバ」
「言わないで下さい」
もう止めとけよ、とサムはシロエの思考と同様の言葉を口にする。だが、シロエはそれを自らの言葉で遮った。わかっていることをさらに言われては傷を広げられるばかりだ。
「ま。悪いやつじゃないけどな」
キースも、お前も。サムは付け加えて、荷物でぱんぱんのスポーツバッグを背負い。手には形の整った学生鞄を持った。清潔で乱暴に扱った様子のない学生鞄は、一目でキースのものだとわかる。
「部活前にキースの様子見に行くけど。お前も来るか?」
行く理由はない。だが、バカの自業自得と放置もし辛い。行ってバカにするのも一興だ。だがそれは怪我人に対してジェントルな態度ではない。シロエは眉間に深く皺を刻み、どうしようかと迷った。
「お前も不器用だよなぁ。迷ってるなら来いよ。つか、付き合え!」
だが、じっと迷うシロエの腕をサムは強引に引っ張った。
「わっ、ちょっ!」
「いまなら、あいつのこと存分にバカにできるぞー。マザーなんたらもいないしな!」
そして再び首にぐるりと腕を回される。脚にはキースの鞄がどしどしと当たり、大腿がにわかに痛んだ。そして迷っていたのも忘れ、シロエは慌てて怒鳴った。
「ぼくは行きません!」
「まあまあ、シロエ君は素直じゃないですねー」
だというのにサムはシロエの言葉を聞き流し、小柄なシロエを強引に引き摺った。
もっと体躯がしっかりしてれば、こんなことはさせないのに! シロエはもがいた。だが、ふと思案する。あと二年経ってシロエがサムのような、もしくはキースのような体躯を手に入れたとして、自分にはサムにとってのキース、キースにとってのサムのような友人はいるのだろうか。二年という年齢差、それによる知識差、経験差、体格差。しかし、そういった差に関わらない現在の日常に対する「満足度」で自分はキースに勝てているのだろうか。
シロエは黙り、ぐっと眉間に皺を寄せた。
負けている……、とは思わない。だが、勝っているとは言い切れなかった。
シロエは引き摺られたまま、サムの顔を見上げた。ニヤリと笑いを含ませて、シロエの視線にも気が付かずにただ前を向いている。
理解できない。なんだってキース・アニアンにはサムのような気兼ねすることのない友人がおり、自分には……。
「まー。おまえも大概健気だよなぁ。毎日わざわざ出席気にして、放課後にはお迎えとはさ」
いや。気兼ねがないのではない。双方ともに無神経なだけだ。シロエはぐっと唇を噛み、再びジタバタともがいた。
「はなせ! この、バカ力っ」
これも全部、キース・アニアンのせいだ!
そしてシロエは明日もキースへの挑戦を続けることになった。