「……っ」
ジョミー、と叫ぶであろう呼吸を待たずにジョミーはブルーへと背を向けた。だがジョミーが駆け出す前に、その背中へ鉛玉のような衝撃がぶつかる。
「また逃げるの? ジョミーはぼくから逃げてばっかりだね」
背骨から身体中へとブルーの声が浸透する。
あまりの移動の速さにジョミーは一瞬ブルーのミュウ化を疑ったが、そうではないことを背中を伝う荒い呼吸が示していた。
「嘘つき。嘘つきジョミー。ぼくのものになってくれるって言ったじゃないか」
腹部を縛り付ける細い腕にぎゅうと力が籠められる。ジョミーはその腕を見て、なんて細い腕なのだろう、と咎められていることも忘れて場違いなことを思った。
「もう、逢えないかと、思った……」
背中へ額が擦りつけられる。ほぉ、とブルーは大きく息を吐き出した。それは火傷しそうなほどに熱い吐息だった。
覚えが、ある……。
ジョミーは自らの腹部へ落とした。そして生後間もない小鳥をなでるように恐るおそる、やさしく、骨張ったブルーの腕へ触れる。やはり熱い。
「……ブルー」
「なにさ。ばかジョミー」
「熱が、あるのか?」
唇の端が震え、言葉が詰まる。ジョミーは触れた手首をぎゅっと握り締めた。
ジョミーのよく知る彼もまた、ときおり熱を出しては平気な顔をして微笑むのだ。
「いつものことだよ、平気。ちょっと疲れただけ」
それよりもジョミーがだいじ、とブルーはしあわせそうにジョミーへ身体を密着させる。だが、そのためにジョミーへはその体温が直接伝わってきた。
このままではいけない。ジョミーは心を固くして、手を沿わせていたブルーの両腕を握り締めた。
「……帰れ」
「いやだ」
ブルーは即答する。そして掌いっぱいにジョミーの服を握り締めた。その爪が腹の肉をひっかき、わずかに痛みが走った。
「家へ帰るんだ」
ジョミーは努めて声を強めた。だがそこへ怒りや憤りは籠めない。ソルジャー・シンであるときと同様に心を堅く閉ざし、無情になにものにも囚われない姿勢を作り上げる。
身体の芯が凍っていくのを感じながら、ジョミーはブルーの手首を握り締める力を強めた。ブルーはなおも抵抗する。その指先を見れば青白い肌がいっそう白く、すこし赤紫色に変わっていた。
「いやだ。ジョミーの言うことなんか聞かない。もう離れない。離さないよ」
いやだいやだとブルーは繰り返す。だが、ジョミーは少しずつ服からブルーの指を強引に解いていった。
年齢以上に幼い体格のブルーと最も力の満ちたころで時を止めたジョミーでは力の差ははっきりとしている。ブルーは混乱しているのか、さらに言葉を連ねた。
「ねえ、ジョミー。ジョミーはぼくと逢えなくて寂しくなかったの? ぼくのものになるって言ってくれたのは本当に嘘なの?」
ジョミーはぐっと指に力を籠めた。腹部に絡んだブルーの指が完全に離れる。
「ジョミーの嘘つき……!」
ブルーはめちゃくちゃにジョミーの身体へしがみついた。どこと構わずブルーの手はジョミーを掴んだ。だがジョミーはその四肢を払いのけ、もみ合いながらも強引にブルーの拘束を解く。
しまった。ジョミーがそう思う間もなく反動でブルーは弾き飛ばされた。跳ねるように腰から地面へ身体を落とす。
「ブルー……」
思わずジョミーは手を差し出しそうになり、それをもう一方の手で押し留めた。
大きく怪我をした様子はない。大丈夫だ。ジョミーはそう自らを宥める。
ぐずっ、とブルーは尻餅をついたまま鼻をならした。そしてボタンのなくなったシャツの袖で顔を拭う。留まる箇所のないシャツは意に反して腕をずり上がり、ブルーは何度も顔をシャツへと擦りつけた。
ジョミーはその姿に居た堪れずに自らも視線を足もとへ落とす。
「……ぼく、明日が誕生日なんだ。14歳の」
その耳へとくぐもった小さな声がポツリと届いた。
ジョミーはハッとして落としたばかりの顔をブルーへ向ける。すると擦りすぎて紅く染まった双眸がジョミーを睨むように鋭く突き刺した。
「目覚めの日だよ」
言って、ブルーは唇の端をわずかに持ち上げ、皮肉を噛みしめた。
「今日ジョミーが来なかったら、きっともう逢えない。だから、ずっと、ずっと待ってたんだ。待ってたんだよ、ジョミー!」
声だけでは伝えきれない想いを放出するようにブルーの指が地面に筋を作った。
「……ブルー……」
「ジョミー、こっちに来てよ。ジョミーからきてよ」
土まみれになった指先をブルーはジョミーへと伸ばす。
だが、ジョミーは動けなかった。まるで影が地面に縫いとめられたようにジョミーの身体は前にも後ろにも進めない。
その代わりに気持ちはさまざまな想いを溢れさせた。突き放せ、抱きしめろ、彼はジョミーの好きだったブルーではない、それでも彼はブルーだ。
影の制限の中で彷徨わせた視線を戸惑いの末にジョミーはブルーへと向けた。先ほどまで睨むようだった鋭い視線が今では怯え、哀願するようなか弱いものになっていた。
「ジョミー……」
ブルーは弱く名を呼び、腰が浮くほどさらに懸命に両腕を伸ばした。
彼を、マザーに奪われたくない……。
ジョミーの背を夕闇の突風が吹きつけた。突然のことに身体がふらつき、ジョミーはブルーの前へと倒れこむ。
「ジョミーっ」
地面に四つん這いになったジョミーへブルーは身体を起こして抱きついた。大丈夫?、大丈夫?と繰り返しながら汚れた指がジョミーの首に回り、湿った土の香りがジョミーの鼻をくすぐる。
くすりとジョミーはわらった。それにブルーは、なに?、と小さく首を傾げる。
「きみから来たじゃないか。ぼくが行こうと思ったのに」
「そっ……れは、ジョミーが風なんかに負けるからじゃないか。ぼくより大きな身体でもよわよわだね」
よわよわ、か。自嘲するように呟き、ジョミーは胸に疼いていた溜め息を一気に吐き出した。
そして自らを抱くブルーの背中に腕を回す。その身体は熱を持ち、陽だまりのように暖かい。ジョミーは300年後のブルーの言葉を思い出して頬を緩ませながら、尖った顎をブルーの肩へと乗せた。
「迎えに行くよ」
「え?」
振り返りそうになったブルーの顔を、ジョミーは後頭部から回した手で自らの肩へ押し付ける。
「明日の朝、ぼくからきみに逢いに行く」
「ほんと?」
うん、と小さく返事をしてジョミーはブルーの髪をくしゃりと撫でた。
たとえこのブルーがソルジャー・ブルーの夢の記録に過ぎなくとも、マザーには決して渡したくない。
その想いのままにジョミーはぎゅっとブルーの細い背中を抱きしめた。ブルーもそれに応えてジョミーの首をさらに引き寄せる。
「待ってる。ジョミー」
わずかに首を捻り、ブルーの唇がジョミーの頬へと触れる。ジョミーはお返しにと少しだけ身体を離し、銀色の髪越しに額へと口付けた。
ブルーを自宅へと送り届け、ジョミーは再びブルーのいたベンチへと戻ってきた。
あたりは夕闇から宵闇へと光を失い、ジョミーを襲った突風に似た風がびゅうびゅうと音を立てて吹いている。
「今夜は嵐か」
ジョミーは呟きながら空へと視線を向けた。
ブルーを見送った家に灯っていた明かり。それは彼にも家族がいる証だ。成人検査を迎えるまでの彼はきっと幸せだった。すこしわがままで、寂しがりやで、温かい14歳のブルー。
ジョミーは唇を引き結んで、荒れた空からベンチへと視線を向けた。そこにはブルーから忘れられた本が硬い表紙を開き、風にページを弄ばれている。
ジョミーはその本へと手を伸ばし、ぱらぱらとページを捲るとぎゅっと胸にかき抱いた。
「きっと君を、同胞を、ミュウを助けるから……」
ジョミーは小さく呟き、意識を自らのあるべき戦場へと戻していった。