Cookie

 ダンッ!
 叩きつけた拳、その反動に全身が震えた。すぐさま熱をもつ手の側面にさらに力を籠める。言葉では言い表しきれない想いが身の内を渦まいていた。
 トォニィは耐え切れず自らの二の腕に顔を埋める。

「……っそ」

 なにもかもが思うようにいかない。すべては自分が至らないからだ。
 それを理解して、寝る間も惜しんで知識を吸収した。先代のソルジャー、ジョミー・マーキス・シン。彼の遺した資料、データ、すべてをかき集め、彼の思考の流れを読みとろうと思念を使わず端から読み漁った。そのあまり、トォニィの脳裏には彼のあらゆる字――急ぐあまり乱れた字、ゆったりと落ち着いた字、愛情に満ちた丁寧な字、怒りに震えた字――が写り込み、見分けることが出来るようになってしまった。
 ジョミーはあまり多くを遺してはいなかった。資料の裏書きから書籍に印されたライン、さらにはしおり代わりにされたメモまでもかき集めて目を通し、その折の彼の状態を照らし合わせてみた。だがそうしてまでもその意味を辿ることは難しかった。なぜならば、すべては彼の頭にあり、彼はそれを他に洩らすことはなかったからだ。
 彼の存命中よりトォニィはその所作を知っていた。それが彼のやり方であり、それが最善なのだと思っていた。
 しかし自らがソルジャーとなりジョミーのやり方を探るにつれ、そのやり方の不器用さと過負荷の行く末を知った。
 どれだけジョミーが自分を信頼し、どれだけ信頼していなかったのか。知るたびに切なさで泣き出しそうになった。
 それでもジョミーはトォニィの憧れであり指標だ。その視線の先にあるなにかをトォニィは探り出さねばならなかった。なにより彼のみたものをトォニィ自身が見てみたかった。
 だがダメなのだ。自分はジョミーにはなれない。それを知っていながらも、あのひとのようにうまくやることが出来ない。

「う、っく……っそ」

 たまらずに嗚咽が漏れる。会議を飛び出し、人気の無い通路でこんなことをしていることすら、ジョミーならばありえないことだ。
 ぼくはあとを任されたのに……。
 情けなさが身体を満たし、いまにも膝を折りたくなった。
 だが、そんなことはできない。叩き付けた拳だけを寄り代にトォニィは必死で身体を支えた。

「トォニィ」

 陽気な思念が背中からかけられる。そして近づいてくる足音は軽く、まるで小石を転がすようだった。
 慌ててトォニィは埋めた二の腕で、意思に反して溢れてしまった涙をごしごしと乱暴に拭い、声の主を振り返る。

「トォニィ」

 トォニィと向かい合った声の主レインは尖った大きな耳を天井へ向けてピンと伸ばし、すらりとした背から伸びる綿毛のようにふわふわとしたその立派な尾をゆらゆらと空に遊ばせて、とっとっととトォニィの目前に立ち止まった。
 そこまではいつものレインと同じだ。だが、トォニィの視線を留めたのは、その口に加えられた彼の頭部と同じほどもある大きなクッキーだった。
 そんなものをどこから持ってきたのだろうか。トォニィは首を傾げながら、そもそもの疑問を口にする。

「……レイン、お前、なんでここに」

「トォニィ、泣いてる? じゃあ、レインの宝物あげる」

 トォニィの質問には答えることなく、彼は彼なりの驚いた点を指摘する。そして、器用に壁を数センチ駆け上がり、それを足がかりにあっというまにトォニィの肩へとその身を落ち着けた。

「レイン?」

「レイン、これもらった。レインのたからもの」

 そう言って、レインは、これこれ、と自慢げに加えたままのクッキーを頭ごと上下に振ってみせる。
 これをもらった? トォニィはさらに発生した疑問に戸惑いながらも、とりあえず片手をレインの目前にさしだすと、レインはころんとその掌にクッキーを落とす。

「レイン、いっぱいもらった。だからこれはトォニィにあげる」

 そう言って、レインは得意げにトォニィの肩を両の前足で引っ掻いた。

「食べてたべて、おいしいよ。トォニィ」

「おいしいよって……」

 トォニィは手元のクッキーへ視線を落とした。手作りらしい搾り出しのクッキー。その中心にはまるでエメラルドのようなつるりとした緑色の砂糖菓子が埋め込まれている。
 まさか毒でも、と斜に構えながらクッキーに残された思念を探る。だが、そこには楽しげで愛情に溢れた思念しか感じられない。きっと作った人物はお菓子作りが好きで、このクッキーを大好きな人のためにと作ったのだろう。

「レイン、これどこでもらったんだ?」

「レイン、トォニィを追いかけてこっちにきた。でもレイン、人間に捕まった」

 そこでレインはきゅっと小さな身体をさらに小さく縮めた。
 レインはジョミーと出合うまで人間に捕獲され、見世物にされていたと聞いている。おそらくレインにとって人間は恐怖の対象、怒りの対象であるはずだ。
 トォニィは

「大変だったな」

と指の背でレインの頭をなでた。

「トォニィ。レイン、人間好き」

「え?」

「人間、レインのこといいこって撫でてくれた。お菓子いっぱいくれた。だから好き」

 だから好きって……、と言葉を失う。だが戸惑うトォニィにレインは当然とばかりに、胸を張った。

「人間、お菓子くれた。甘くてあったかくてやさしいお菓子。だから好き」

 すごーくあったかかった。レインはそれを表現するようにトォニィの首へそのふさふさの尾を巻きつける。毛の先がちくちくと肌をさし、すこしむず痒くなった。だが、その想いは熱いほど伝わってきた。
 指先でつまんだクッキーから、レイン自身から、あたたかくやさしい思念が絶え間なくトォニィを刺激してくる。
 そのあたたかみに母親を思い出し、鼻がつんと痛む。

「とってもとっても美味しかった。嬉しかった。だからレイン、ありがとうってお礼を言った。人間、ちょっと驚いてたけど。ちゃんと、またおいで、って笑ってくれた」

 トォニィが反応を返さず無言でいるとレインはもう一度「レイン、人間好き」と言った。

「トォニィはやさしくされたら好きにならない? やさしくしてあげたくならない?」

「そんな、ことは……」

「トォニィ、クッキー食べて。あったかい気持ちになるよ。やさしくなるよ」

 促され、トォニィはクッキーを口に押し込んだ。バターがすこし多い、しっとりと甘いクッキーだった。手作りのクッキーだった。それを一口ひとくち噛み締め、飲み込まないようにその味を確かめる。
 その間にレインはひと跳びでトォニィの肩から床へと飛び降り、まるで自分の手柄のようにふふんと笑ってトォニィの周囲を一周した。

「ジョミーも」

 唐突にでた名前にトォニィは口を動かしながらレインの尾を視線で追う。

「ジョミーも人間、すきだった。ともだちがいっぱいいて、たたかいたくないって悩んでた。ずっと泣いてた。なんども会議を逃げ出して、部屋の隅っことか、ブルーのところでいっぱい泣いてた」

「ジョミー、が?」

 ソルジャー・シンとなってからの姿しか、トォニィには彼のイメージが無い。頼りないソルジャーだったと伝聞で聞かされてはいたが、その姿を想像することはできなかった。
 だが、レインはトォニィよりずっと長くい時間を生き、ジョミーとともにシャングリラを訪れて誰より彼とその周囲をみつめてきたのだろう。
 トォニィは口に含んだクッキーを丁寧に飲み込んで、レインへと身を乗り出した。

「レイン、ジョミーも泣いて、た……?」

「うん。泣いてた」

 レインは窓際の桟に跳び乗り、懐かしむように眼下の星をみつめた。その星は地球ではなく、ジョミーとレインの出会いの地アルテメシアでもない。人類から与えられミュウの入植し始めた新たなミュウの母星だ。そこにはすでに営みが築かれはじめ、トォニィはそれを守るという重責を負っている。

「ジョミーは泣き虫だった。泣いて、悩んで、怒って、笑って。ジョミーはいっぱいいっぱい頑張ってた」

「がんばって、た」

「うん」

 トォニィは一文字ひともじたどったはずのジョミーの文字を思い返した。そういえばあの文字には初期のものはない。ソルジャーとしての任を務めていない彼の経歴まで遡りきれていない。

「ブルーがいつもジョミーに言ってた。はじめからなにもかもうまくなんていきっこないって。ことの善し悪しはすべてが終わってみなければわからないって」

 ソルジャー・ブルー、伝説のミュウの長。トォニィにとってその存在は感じる思念だけの存在だった。ミュウすべてを包んでいた大らかな思念、その持ち主。だが、ミュウにとって思念はすべてを伝えるものだ。彼が優しく、偉大で、そして誰よりミュウを想っていたことはその肌に感じ、知っている。
 ブルーがジョミーにかけた言葉がトォニィには痛いほど突き刺さった。苦しさに思わず胸へ手を添え、顎をひく。

「ぜんぶがうまくいくことなんて希だって。だから、自分が正しいと信じた道をいけって」

 自分が正しいと信じた道を、自分は歩んできただろうか。ジョミーの想いを辿ることばかりに必死で、周囲の声や自らの想いを探ることを忘れていたのではないだろうか。

「……ねえ、トォニィ」

 レインは背を向けていたトォニィを振り返った。

「レイン、人間のクッキーまた食べたい。また、ありがとうって言って笑ってもらいたい」

「レイン」

「トォニィ、できるよね? また会えるよね?」

 レインの問いに、トォニィは窓から見える眼下の星と飛び出してきた会議室のドアを見比べた。そして小さく息を吐き出す。

「大丈夫だよ、レイン。そうなるように、頑張ってくる」

「うん。ありがと、トォニィ」

 甘えてレインはトォニィの掌に顔を擦り付けた。その感触にくすぐったく思いながらトォニィは固くなっていた頬を緩ませる。

「レイン、もう戻るよ」

「レインも行く。人間いる?」

 人間、とトォニィは会議に顔を出していた褐色の青年を思い返した。あの場で彼がレインにクッキーをあげるとは思えないが、人間がいることには間違いないだろう。

「いるよ」

「人間、好き」

 素早くレインはトォニィの腕を駆け上がり、再び肩にその身を落ち着ける。トォニィは笑顔を含みながら、レインの尾の下から広がる深緑色のマントを翻し会議室へと脚を戻した。

written by ヤマヤコウコ