また雨になりそうだ。
シェイクスピアのマクベスを耳腔へ流し込みながらジョミーは窓の外へ注意を向けた。
指のあいだに挟んだペンの天辺を頬に押しあて、への字に歪むはずの表情をひょうきんに変える。
おそらく教授側からすればバカな学生に見えるだろう。
我ながらバカなことだとは思うがつまらなそうにしていると見留められ無茶な問いを与えられるよりずっとましだ。
ブルーはどうしてるかな……。
午後の講義がはじまったばかりだというのに、空はどんよりと薄暗い。
また雨が降るかな、そう思った途端見つめていたガラスに雨粒の流星が走った。ひょうきんだった表情が硬直し、哀しみにも似た怒りが腹の内側に沸き上がる。
「また、雨かい……?」
額に星屑のようにきらめく脂汗を浮かべ背後の窓を振りかえるブルーの姿が脳裏に思い出される。
その姿は思い描く絵面にくらべ、どれだけ悲痛なことであろうか。
彼の姿を思い出し条件反射のようにどきりと高鳴ろうとした胸を押し留め、ジョミーはぎゅっとペンを握り締めた。
雨の時期にはいつもこうだよ、と細い身体にあまりある熱を宿したブルーは心配するジョミーへ諦めたとばかり軽く笑んでみせた。
ブルーがやっとまともに講義へと出席し、セカンドのジョミーとともに連れ立つ姿が学園の日常として溶け込んできたところだった。だというのに、このところは一日のほとんどをベッドの中で過ごし、以前のようにふらふらとひとり出歩く姿さえ見かける者はない。
もしかするとブルーを学園という世間とは隔離された異常空間の見せた幻のように感じている者もいるかもしれない。それほどに忽然とブルーは雨とともに学園内から姿を消した。
どうして、こんなときに……。
ガラスを埋め尽くそうという流星群をジョミーは仇のように睨み付けた。
恨むあてもなく、もやもやとした想いだけが胸に錆のようにこびりつく。雨は止められない。ブルーは悪くない。ブルーのように仕方がないのだと諦めようとすればするほど錆は広がり、まるで自分が汚れた厭な人間のような気がしてくる。
ブルーはこれまでもなにか好機へ向かおうとするたび今回のように阻まれていたのだろうか。
だとすれば、あの萎みかけた風船のような性格も理解できる。常に拘りを持たず行方も決めず、揺れながら落ちていくのだろう。
だが、その風船には新たな吐息が吹き込まれたはずだ。それをいままた阻むことなど許さない。
教室の隅に置かれた柱時計がポーンポーンと厚い重低音で二度鳴った。講義終了の合図だ。
ジョミーは教授の退室を待たずに荷物をまとめて立ち上がった。ひとつとなりに座っていたキースが驚いた表情をジョミーへと向ける。
「どうした、ジョミー」
「ごめん、キース。一度寮に帰ってブルーの様子みてくる」
ブルーの名が出て、あからさまにキースの眉間に皺が増える。
なぜだか彼はブルーのこととなると感情の波が激しくなるようだった。
しばらく前までは学園のほぼすべての人間が同様の反応を示していた。まるで戯曲マクベスのように名を呟き耳にしただけで呪われるとでもいうように不快感を顕わに身を竦めていた。
だが人心というものは移ろいやすく、いまでは眉をひそめるのもキースくらいのものだ。
「ジョミー、次はグレイブ教授の講義だぞ。大丈夫か?」
キースに代わりワンブロックほど離れた席に座っていたサムが教科書を小脇に抱えて駆け寄ってくる。その教科書には講義中に配布されたプリントが乱雑に挟み込まれ、キースとジョミーの会話を聞きつけ慌てて荷物をまとめたようだった。
「適当に言い訳しといてよ。サムなら得意だろ?」
そりゃまあ、とサムは言葉を濁す。その間にジョミーは自分の辞書と教科書を丁寧にブックバンドで縛りあげる。力を籠めすぎたのか本の間に挟まった空気が唸るように低い声をあげた。
「頼むよ」
ジョミーは文句を言わせないよう念を押す。サムもその意志を感じとり、やれやれといった表情を浮かべた。
そしてキースの首へ筋肉の張りついた太い片腕を回すとその肩をがっつりと掴んだ。キースが再び不満げに眉根を寄せる。
「じゃあ腹イタでトイレに籠もってるとでも言っとくかな」
「……サム」
サムの軽口をキースが咎める。だが、ジョミーは「それで構わないよ」と束ねた本を腕に抱えた。
「ありがと。それじゃ」
「ジョミー」
キースとサムに背を向けようとしたジョミーをキースが呼び止める。そしてぼそぼそと小さく濁った声で
「お大事に」
と独り言のように呟いた。
ジョミーは驚きにわずか目を見開きキースを振り返った。
するとキースは眉間の皺を深め、わざとらしく机に向かうと自身の荷物をまとめ始める。
キースの態度に戸惑いジョミーが解説を求めてサムを見ると、サムはキースの肩をどつくように音をたてて叩き離すと唇をゆがませて嬉しそうににやりと笑った。
「お大事になぁ、ジョミー。お前はいまから腹イタなんだからよ」
「ああ、うん」
ありがとうとジョミーはもう一度言い、こんどこそふたりへ背を向けた。
そしてサムと同様に歪みそうになる口元へ手の甲を押し付けながら、教室の階段を一段とばしで駆け上がった。