Rainy Rainy

 外気に触れた身体がふるりと震えた。
 霧のような細かな雨がわずかな風に流され、白いワイシャツから伸びたジョミーの肌を濡らした。
 肘の上、腕の四分ほどで途切れた袖はしっとりと水分を含み、ジョミーの健康的に焼けた肌へとへばりつく。

「……っ」

 あまりの鬱陶しさに、ジョミーは二の腕に張り付いたシャツを指先で摘み上げた。だが、しっとりと濡れ灰色がかったシャツは再びジョミーの肌へとその身を重ねる。
 どうしてこんな構造なんだ。ジョミーは胸中で不満を洩らしながら、腕に抱えていた教科書を腹部からシャツと肌の間へと滑り込ませた。
 分厚いハードカバーが直接裸の腹部に触れ、その冷たさにジョミーは肩を震わせる。
 外界と人を区切るのは簡単だ。ほんの薄いガラスを張り巡らせれば、あっという間にそこは快適な空間になり、嵐をも自然の趣きとして楽しめる場となる。学園内の一部にはそれに似た場所もアトリウムとして既に設置されている。
 学園内に立ち並ぶあらゆる建物は、シナプスのように巡らされた通路でつながれていた。
 だが、その殆どが上部にアーチだけが据えられた簡易的なものだ。
 ジョミーは未だ体験してはいないが、夏には強烈な太陽に肌を焼かれ、冬には凍えるような寒さに晒されることだろう。
 なるべく自然のままに。シャングリラ学園はその姿勢を貫いて築かれている。
 最新鋭の機器は根元だけで、人の手で為せることはなるべく人の手で行うこと。コンピューター管理によってすべてが自動で行われることが当然の社会で、学園内だけは千年にも近い時を遡った姿を見せている。
 その良さはジョミーも知っている。シャングリラ学園へ入学したあの日、やはり渡り通路でジョミーはブルーから「セカンド」と「ビー」を教えられた。
 そのときの空気の温度、香り、すべてが特別のままジョミーの五感に刻み込まれている。そういった肌で感じる記憶が、きっと大切なのだろう。
 ブルー……、どうしているだろう。
 講義を抜けた理由をふたたび思い起こし、ジョミーは学寮アタラクシアへの道を急いだ。

 

 片方しか開いていない両開きの扉の前で、ジョミーは大きく水面を広げた雨溜まりを飛び越えた。とんっ、と見た目よりずっと強固な木造の床が音を立てる。
 跳ねた反動で髪や服についた細かな雨が周囲に飛び散り、ジョミーは子犬のようにぶるぶると頭を振った。腹部からブックバンドで縛り上げた教科書も取り出し、撫でるようにその水滴も払う。
 ブルー、寝てるかな。ジョミーは出入り口のすぐ脇に設置された階段を見上げた。
 吹き抜けになった階段部分は天井が小さなアトリウムのようなガラス張りのドームになっていた。
 だが、いまはそのガラスも雨に濡れ、暗い灰色の空を滲ませるばかりで、光源としての役割を果たしてはいない。
 木製の床に中央にだけ薄汚れた真紅の絨毯が敷かれた階段はカクカクとした螺旋を描き、踊り場には小さなはめ込み窓があったが、やはりそちらも雨に濡れた樹木を覗かせるばかりだ。生徒の居ないはずの学寮には明かりも灯ってはおらず、まるで廃墟にでもやってきたかのような薄暗い印象をジョミーに抱かせた。
 ブルーとともに日々を過ごす部屋はこの階段を昇った先、二階の奥から一つ手前の部屋だ。
 最奥の部屋は空室で、どうやら長年学寮で過ごすブルーの物置部屋のようになっているらしい。
 ジョミーはわずかに湿った金髪を混ぜながら、ゆっくりと階段をあがった。
 ぎゅうぎゅうと押し殺した呻き声が足もとから鳴り、誰もいない空間へと響きわたっていく。
 ぶるりと大きくジョミーの身体がふるえた。すぐに着替えなければジョミーも風邪を引いてしまいそうだ。
 寝てる、かな。ブルー。
 そういえば、先ほどからブルーの状態ばかりを考えている。そんな自分に気づいて、耳の裏までが一気にカッと熱くなった。
 それを誤魔化すように、ジョミーは鍵を取り出そうと左腰のポケットへ手をねじ込み。部屋の内側を窺おうとにわかに耳を澄ました。
 一番大きいのは葉から滴る雨の音。だが、雨音に紛れて木の葉が擦れるような囁き声がジョミーの耳をくすぐった。
 来訪者だろうか。もしかするとハーレイあたりがブルーの体調不良を聞きつけて見舞いにやってきているのかもしれない。
 ジョミーは、まるで他人の部屋に無断で侵入するかのように、音を立てないよう慎重にドアノブを握り締めた。
 朝、ジョミーが鍵をかけたはずのドアは、わずか力を込めただけで、あっさりとノブを回転させる。そして最後にカチリと小さな音を立てて、開いた。

「た、だいまー……」

 申し訳程度に声をかけてジョミーは室内へ足を踏み入れた。
 それと同時に聞き取りきれなかった室内の声が未だ熱を含むジョミーの耳へと明瞭に届く。

「それでは、ブルー。失礼する」

 ジョミーには聞き覚えのある声だった。だがそれが誰であるのか、思い出せない。たが、ハーレイのものでないことだけが確かだった。
 低いがよく通る、どこか威厳にも似た強い声。いったい誰だろう。
 ジョミーはいまだ見えぬ姿に、いくらもの人物を当てはめながら、片手を壁に這わせてそろりそろりと歩を進めた。

「ああ。いつもありがとう」

 退去の意を伝えた来訪者にブルーは礼を述べる。
 ブルーに関わる人間など、残念なことにこの学園内には一握りだ。しかも「いつも」とは……?
 もうジョミーには思い当たる人物などいない。
 いや、もう部屋の奥、ブルーの姿が壁の角から見えそうだ。
 ジョミーはごくりと喉を鳴らして唾液を飲み込む。

「ただいま、ブルー……?」

 恐るおそるもう一度、ジョミーは部屋の奥へと声をかけた。

written by ヤマヤコウコ