ぎぎ、と椅子を引く音がした。
ちょうどそのとき、引いた椅子の傍らに立つ人物がジョミーの視界に入る。
そのあまりの意外さにジョミーは思わず目を見開いた。
「ジョミー、おかえり。はやいね」
驚きに身体を固めていたジョミーへ、ベッドに長座したブルーは一瞬まばたきを繰り返し、やわらかい声でジョミーを呼んだ。その声はいつもよりトーンが高く、わずかに興奮している。
だが嬉しげなブルーに反して、その傍らに立った意外な人物――グレイブはにやりと唇を歪め、引いたばかりの椅子の背に片手を沿わせた。
「君を心配して講義を抜け出してきたのだろう。やはりセカンドは似るものだな」
グレイブ教授の言葉にブルーは「そうなのかい?」と驚いた顔をジョミーへ向けた。
「え……あの。その……」
肯定すればブルーに角が立ち、否定しては辻褄が合わなくなる。
ジョミーには無回答が肯定と同義と知りながら言い淀むしかない。
そのジョミーの態度を見留め、ブルーの眉が口惜しげに八の字になる。
「ジョミー、きみは……」
「私は咎め立てるつもりはないがね。サボタージュは学生だけが持ちうる特権だろう」
高い身長と成熟した身体を持て余すようにグレイブはゆったりとした仕草で腕を組んだ。
口を開きかけたブルーも言葉を中途半端にその落ち着いた、それでいて愉しげな顔を見上げる。
「グレイブ」
「獲得した時間を有意義なものとするか、溝に捨てるかは本人次第だ。まあ、私なら次の講義に響かないよう教授室くらいは訪ねるが……」
切れ長の鋭い瞳でグレイブがちらりとジョミーを見た。
その圧倒的な大人の迫力に、ジョミーは思わず喉を鳴らして唾液を飲み込む。
「さて私もすぐに次の講義だ。邪魔したな、ブルー」
「あ、ああ。ありがとう」
組んでいた手を解き、脇においていた数冊の本を手にとり、グレイブは長い脚を駆使して数歩でジョミーの脇をすり抜けた。
その間中、ジョミーはグレイブの一挙一動をまるで珍しいものかのように、見つめ続けた。
そして通り過ぎざま、見上げるジョミーにグレイブは、部屋で初めて見たときと同じく、にやりと唇をゆがめて笑いかける。
「シン、流されすぎるなよ」
低い声が耳の後ろに囁きかけた。
ジョミーはその意味をすぐには飲み込めなかった。流されるな? なに、に?
背後でカチャリと掛かっていない鍵の開く音がし、ジョミーは咄嗟に問い返そうと振り返る。
「……っちょ」
だが振り返ったそのとき、ドアが溜め息のような音を立てて、ぱたんと閉まった。
どういう、意味……だろう。
ジョミーは閉じきってビクリともしないドアを見つめ、身体の脇で拳を握り締めた。
そこへ
「……ジョミー」
と、部屋の奥からブルーが声をかけられる。
ちらりと振り返ると、急かすように二度呼ばれる。
「ジョミー」
おいで、とは言われない。だが、その強い声音に意志は知れた。
ジョミーは拳を解き、代わりに唇を噛んだ。
悪いことをしている気は微塵もない。
心配だった、講義よりもブルーのほうが大切だと思った、だから帰ってきたんだ。
それでも、ブルーのために講義をサボってきた事実が変わることはない。
しかし、そのことでブルーに負い目を感じさせたくもない。
ジョミーはもう一度、閉じたドアを見た。
どうして、あの人がいたんだ……っ。
疑問とすこしの腹立たしさが胸を渦巻く。
自分とブルーの部屋にグレイブ教授がいたことも。
そして微妙な空気を作り上げていったことも。
すべてが疑問であり、その不可解さがさらに腹立たしさを増幅させた。
ブルーは部屋に満ちた微妙な空気を指摘しないではくれない様子だ。
ジョミーは気持ちを紛らわせるようにちいさく息を吐き、踵を返した。
「ただいま、ブルー」
言いながら部屋を横断し、ジョミーは先ほどまでグレイブが掛けていただろう椅子に腰を下ろす。
硬い木製のはずの椅子はほんのりと温かく、なぜか柔らかくすら感じられた。
その据わり悪さにジョミーはもぞもぞと尻を動かし、持ちっぱなしだった教科書を膝の上で縦に横にと持ち直してみる。
そんなジョミーをブルーは黙って見つめていた。
ジョミーもそれに気づいていた。だが、正面からその瞳に向き合えば、自分が謝罪の言葉を口にしてしまうだろうことも容易に予想がついた。
だから敢えて気づかないふりをし続ける。
ジョミーはブルーの視線から逃げるように、ベッドの背側に据えられた出窓に視線を流した。
先ほどよりは幾分雨足も弱まっただろうか。
霧のような細かい雨が景色を白い幕で覆ったように見せていた。
ウエディング・ヴェールを被って見た世界というのはこんなものなのだろうか。
このヴェールを脱いだ先には幸せがあるのだろうか。
自らでは決して経験しえない状況をジョミーは夢想する。
「ジョミー」
ジョミーの無視に痺れを切らしたのだろうか、ブルーはため息混じりにジョミーを呼んだ。
それに対しジョミーは顔をうつむかせることで応える。いま、口にできることばは見つからなかった。
またひとつ、ちいさな吐息が微妙な空気に溶け込み、その密度を上げる。
留められたままの視線。
濃さを増す空気。
そのあまりの濃密さに呼吸すら苦しく、ジョミーは息を止めて、手元のブックバンドに指を絡めた。
ぐっと関節に力を籠めると妨げられた命の流れが赤くその存在を主張する。
こわい。ジョミーは思った。
ブルーに呆れられることが、諦められることがこわかった。
もうひとつ吐息。そして熱を含んだシーツの擦れる音。
ジョミーは覚悟を決めて、ぎゅっと身体に力を籠めた。
だかジョミーの覚悟に反して、焦げ付きそうだった視線はジョミーから外れていった。
なんだろう? ジョミーは普段そうするようにブルー視線の跡を追いかけた。
「……ジョミー、外の雨はひどいのかい」
先ほどまでジョミーが逃げていたものを見て、ブルーは言った。
流星の走る窓、その向こうの白んだ雨色。
「別に……それほどじゃ、ない」
自分でも嫌になるくらいいじけた声が出た。恥辱に眼の下あたりがじんわりと熱くなる。
「そう。でも」
窓を向いていたブルーの顔がジョミーを振り返る。
シーツの上で礼儀正しく組み合わされていた手が、細い中指を先頭にジョミーへと伸びてくる。
「濡れているよ」
湿って肌に張りついたシャツの袖を桃色の指先が掴む。「ジョミー」
「……っ、平気だよ。大したことない。すぐに着替えるから」
着替えるから、とブルーの指先すこし先に指をかけ、シャツを引く。
だがブルーはジョミーのシャツを手放そうとはしなかった。
くい、と無言のままもう一度引く。しかしそれでも放さない。
ジョミーは睨むようにベッドのブルーを見下ろした。
だが、そこにはジョミーを見上げる紅い瞳だけがあった。
顔に表情はなく、まるで無知な子どもを大人の事情で叱り付けたようなばつの悪さを感じて、ジョミーはまた手もとへと顔を背けた。
「……ブルーが濡れるよ」
「いいよ。じゃあ一緒にシャワーでも浴びようか。ぼくも汗で気持ちがわるかったんだ」
シャツを掴んだ指先が伸びてジョミーの指先へと絡み付く。
熱い。そう思うほどブルーの指先は熱い体温を抱いて、ジョミーの手を包み込んだ。
「まだ熱があるじゃないか」
非難するようにジョミーは言った。体調を崩した身で気軽にシャワーだなんて。
だが動揺するジョミーに対してブルーは「そうだね」と脂汗を浮べた顔で微笑んだ。
「シャワールームで倒れでもしたら大変だ。だから一緒に入ってくれるかい?」
ね。それならいいだろう? と、頭だけ傍を向いたジョミーの胴をブルーは両腕で引き寄せ、抱き締めた。