Retro-range

 カタン。
 音を立てて置かれたグラスを、音もなく滴が伝う。すこしずつその身を膨らませながら、ゆるやかな曲線を伝い落ち、滴はテーブルの上へとふっと広がって姿を消した。
 その様を深緑の瞳へ焼き付けて、ジョミーは自らのグラスへ口をつける。
 ぱちぱちと喉を炭酸が刺激した。オレンジの爽やかで甘い飲み口がジョミーのお気に入りだ。
 だが、目の前のテーブルに置かれたものはどうだろう。ジョミーはちらりと視線を流す。
 その色はジョミーの手にあるものと同じかわずかに淡い。その内には炭酸を示す細かな気泡が満ち、ときおり底辺から上部へとゆらゆら舞い上がり、消える。
 見た目はほとんどおなじだというのに、そのグラスはなぜか人を変化させる。
 また、テーブルのグラスが細い指に絡めとられ、宙に浮いた。

「ブルー……それ、おいしい?」

 怪訝に眉を顰め、ジョミーはグラスを口元へ近づけたブルーへ訊ねた。

「そうだね……」

 ブルーはグラスへ口をつける前に呟き、

「すこし、濃い、かな」

 と答えを返した。
 今日のものは、とブルーは付け加え、もう一度口をつける。
 薄い唇へ滑り込むそれは、ジョミーのものといったいなにが違うというのだろう。
 ジョミーはまだ早いと禁止された不満を発散させるようにオレンジスカッシュを大きくあおった。

「あ」

 ブルーが呟いた。

「なに?」

 ジョミーは訊ね返した。

「ジョミーはオレンジスカッシュがすきだったね」

「そうだよ」

 そんなのはいまさらじゃないか。
 ジョミーは唇をゆがませ、それを誤魔化すように空のグラスに口をつけた。
 だが、ジョミーのそんな様子など気づかないようにブルーは「それは知っているとも」と自慢げに胸を張った。

「ジョミーのことならなんでも知っているよ」

「たとえば、どんな」

 手馴れた口調でジョミーは問い返し、追加のオレンジスカッシュが入った傍らの瓶を手に取った。じわりと冷えた結露が素肌の手に張り付く。
 初夏の爽やかな暑さに調節された温室において、ソルジャー特有のマントと手袋、チュニックを脱ぎ捨てるのが、ブルーとジョミーの約束のようになっていた。

「たとえば、なにがいいかな」

 瓶を傾けようとしたジョミーの手をブルーが言いながら制止する。
 なに?、とジョミーが視線を向ければ、ブルーの視線はなにかを思い出しているのかあたたかな曲線を描き、さり気なくジョミーの手から瓶を取り上げた。

「ジョミーは、すごくよく笑う子だったよ」

「なんだよそれ」

「一歳か、二・三歳くらいだったかな」

 トクリトクリと鼓動のような音をさせて、ブルーがオレンジスカッシュを注いでいく。
 どれだけ適当なんだよ、とジョミーは思うが、手元へ注がれるブルーの視線があまりに甘く、なにも文句が言えなくなる。

「だれにでも、なんにでも手をふってね。にっこりにっこりわらうんだ」

 コトン、と重い音をたてて、瓶がテーブルに置かれた。
 ジョミーが不満げにブルーの顔を見上げると、ブルーは自らの言葉を体現するようににこりとわずかに笑んだ。

「そんなの、憶えてないよ」

「そう、だね」

 「そうだろうね」とブルーは言いなおして、腕をのばしてジョミーの肩を抱き寄せた。
 その紅い双眸は細められ、思い返すように宙を彷徨う。「でも、もしかしたら」

「そのころのジョミーには、ぼくがみえていたかもしれない」

「え?」

 ジョミーは言葉とともに振り返った。
 だが、その行動半ばでジョミーの頬へブルーの唇が軽く触れた。わずかに独特の匂いがジョミーの鼻腔をくすぐる。

「一度……、いちどだけぼくを見て笑ったんだ。だからぼくはうれしくなって、おもわず手をふってみた。いつもきみがするみたいに」

 ぎゅっとジョミーの肩を掴む手に力が篭もった。
 ブルーは恥らうように首を傾げ、紅を塗ったように頬を紅潮させていた。思い返した幸せが押えきれないのか、その様子はさきほどよりも明らかに興奮している。
 仕様がないな。呆れ気味に「そしたら?」とジョミーは先を促した。

「そうしたら……、ジョミーが手を振ってくれた。もしかしたら、ぼくの後ろにあったぬいぐるみに笑いかけただけかもしれない。窓の外にチョウでも飛んでいたかもしれない。それでもジョミーが、にっこり笑って、手をふってくれたんだ……」

 長い言葉の最後は萎むように掻き消えた。
 肩がさらに掻き寄せられ、接した肩にブルーの額が押し当てられる。

「……ブルー?」

 ジョミーは目前にある銀の髪へ指を絡ませ、なだめるようにやさしくかき混ぜた。

「でも、ぼくは、ジョミーを抱きしめられなかったんだ。うれしくて、いとおしくて、仕方がなかったのに……」

 こわかったんだ……。ブルーは声もなく唇だけでそう続けた。

「抱き上げたところをきみの両親に見つかったら。抱き上げられずに、きみにぼくの存在を否定されたら。そう思うと……」

 感情をこれほど素直に吐露するブルーは初めてだった。これがオレンジスカッシュとの違いなのだろうか。
 冷静に思考をめぐらせながら、ジョミーは手を伸ばした。ジョミーを抱くのとは別の、だらりとブルーの腰脇に垂らされた腕をぎゅっと握り締める。

「いまなら、へいきだよ。それとも、大きくなったぼくはもういい? ちいさいほうがいい?」

「ジョミー」

 呆れたような溜め息とともに、握り締めた腕がするりとジョミーの脇へ滑り込む。
 そのすべる感触に身体が震えた。

「ジョミー、わらってくれないか」

「そんなの、いきなり言われても無理だよ」

 そう? ジョミーの答えにブルーはくすりと笑った。
 そしてぐいと、ジョミーの身体を座っていたソファーの背もたれに押し付ける。
 傍らのテーブルが大きく揺れ、ガシャンとグラスが音をたてる。

「なら、おおきなジョミーにもちゃんとわらってもらおうかな」

 ブルーは意地悪そうに笑って、濡れた指先をその紅い舌でぺろりと舐めた。

written by ヤマヤコウコ