Rainy Rainy

――シン、流されすぎるなよ。

 成熟した重低音が耳に蘇る。
 グレイブ教授はブルーのなにを知っていて、あのような警告をしたのだろうか。
 昨日は突然のことに混乱雑じりの怒りをも感じてしまったが、グレイブがただいたずらに発言をするような人間でないことは、その人となりをすこしでも垣間見ればすぐにわかる。
 そんなことを目の前で言えば、「そうでもないぞ」とにやりと笑う余裕をもつ人物であることも、なんとなく感じられる。
 だからこそ考えてみれば、ブルーとグレイブという組み合わせは意外にもしっくりとはまり込む。
 実際に会話を耳にし、対峙を目にしたこともあって、彼らが会話する様子はなぜだか自然に想像がついた。
 グレイブは起立し、難しい言葉を語り、ブルーは座り込んで身体を伸ばしながら本のページを捲る。
 視線は決して交わさないまま、互いに何かの片手間に言葉を紡ぐ。
 その内容はジョミーには入り込めないような嘲笑的な比喩と嫌味ばかりなのだろう。
 だがきっと言葉面には現れない温かな感情が根底にある会話だ。
 そんなの、ぼくには無理だ。
 相手の思うところを探りながらの会話はジョミーの最も苦手とすることだ。
 それより直接、端的に素直な言葉で伝えたい。
 知らないことがムカつく、入り込めない空間が羨ましく恨めしい、などと子どもっぽい感情もある。
 しかしそれは僅かで、それよりもただ知りたい。
 過去を暴きたいわけではない、ただ知りたい。
 ブルーとともに見る景色はジョミーにとって心地よいばかりだ。
 それがどうしてなのか。
 物事がよい事だけで済まないことはさすがのジョミーでも理解している。
 流されすぎるな。
 それはつまり、ブルーの奥へ踏み込むな、ということだろうか。
 それとも、表面上だけの付き合いを止めてその奥を見ろ、ということなのだろうか。
 ジョミーは情けなく悔しい感情を覆い隠し、なるべく自然を装って首を傾げてみせた。

「……ブルー?」

「ああ、いや」

 寒いのだろうか、肩にシーツを引き上げながら「なんでもない」と音もなく唇が続ける。
 視線は膝元、ブルーとジョミーの間を彷徨い。
 結局はちいさなため息とともに瞼の内側に隠された。

「ジョミー、すこし頼まれてくれるかい」

「なに?」

 遇ったらでいいのだが、言頭にそう強く付け加え、ブルーは窓へと顔を向けた。
 涙粒はいまは消え、代わりに斜線を描いて降り始めた雨がガラスを、たたた、足音に似た音を立てて叩いていた。

「グレイブ……教授に、考えておく、と伝えておいてくれないか」

「考えておく?」

「そうだよ。まあ覚えていたらでいい」

 そう言いながらもブルーは顎を引き、窓辺から視線を落とす。
 言わなければよかった、とばかりちいさなため息をつく。
 その様がジョミーにとってはもどかしく、切ない。
 そこにはブルーのちいさな悩みがあるはずなのに、それを語ってはくれないのだ。
 語るには値しないとどこかで判断され、切り捨てられている。
 『すべてを語り、秘密をもつな』などと勝手なことは言えない。
 けれど、でも、でも――!
 そんな気持ちばかりがジョミーを囃したて、焦らせる。
 ブルーはジョミーのそんな想いなど感じていないのだろう。
 スイッチを切り替えたよな明るい声で

「ジョミー」

 と名を呼び、顔を上げた。
 そしてジョミーへ向かって片腕を伸ばしてくる。

「今日は、ずいぶん早いんだね」

 わざとらしくブルーは声を張り上げ、笑む。
 その最中でブルーの指先はジョミーにたどり着いた。
 頬の表面を輪郭に沿ってなで、耳の裏へ這入りこむ。
 先ほどまで冷たかった手はわずかに温かみを帯び、ぴったりと肌に貼り付いた。

「うん……」

 ジョミーはわずかに躊躇い、口を開いた。

「昨日のプリントとか、キースとサムから受け取らないといけないからさ。講義の内容も教えてもらわないと」

 半分は真実だ。
 だがそのうちの半分は隠しておく。
 本当は、朝のうちにグレイブの教授室を訪ねるつもりだ。
 キースとサムには厭が応にも講義で顔を合わす。
 別段に急ぐ必要もないだろう。
 早くに出れば、前の晩にした予習の復習を早朝にしているというキースには出会えるだろう。
 彼にならばプリントの受け取りや講義についても教えてもらえる。
 だが、それらは講義間の休憩中にもできることだ。

「そう。ジョミー、行っておいで。もうぼくのことを気にして、帰ってきてはいけないよ」

 まるで子どもにするようにブルーは、ジョミーの頬を親指でつまむ。
 そして、ふっくりと盛り上がった部分へ唇を寄せた。

「行っておいで」

 やさしく言い、ジョミーを開放する。
 ジョミーはそれに促されて、ベッドへ手を付き身体を持ち上げる。立ち上がる。

「うん、行ってくる。でも今日は金曜だから、午後には戻ってきちゃうけどね」

 胸を張って、にやりと笑う。
 するとブルーも顔をほころばせて笑った。
 それを確認して、ジョミーはにわかに動きはじめた。
 もう行かなければ教授室に寄れなくなってしまう。

「ああ、そうか。もう曜日の感覚もないね、ぼくは」

「しっかりしてよ、ブルー。あ、昼食は持ってくるから部屋で待ってて」

 ハンガーに重ねてかけた上着と毛糸のベストを揃って手に取り、袖を通す。
 朝はもうだいぶ寒い。
 そろそろ支給されたままクロゼットの奥に追い込まれたセーターやマフラーも引っ張り出さなければならないだろう。

「わかった。朝食はそこのテーブルかい?」

 朝食とともに受け取ってきたブルーのために包まれた食事が、いつも通りベッドの裾にあるテーブルにのっている。
 食堂に行けば、それはもう手馴れた作業でジョミーに受け渡される。
 ずっとのことなのだ、ジョミーの入学する以前からブルーのために食事が用意されている。
 テイクアウトはいくらでも頼めるが、どうやらブルーのメニューは特別仕様のようだ。
 食堂で働いている多くの年配女性にとって彼はどうやら『心配な学生』の筆頭で、「調子はどう?」とジョミーが声をかけられれば、それはジョミーに対してのものではなくブルーことを訊ねるものだ。
 それに対し『調子が悪い』と答えれば、次には温かく胃にやさしいものが。
 『いつもどおり』と答えれば、次には華やかなものが出てくるようだ。
 きっと『サボってます』などといえば、マスタードたっぷりのサンドイッチなどを持たされるのだろう。

「そう。今日は……、なんだっけ。卵のリゾットとか言ってた、かな?」

 そういえば入学した手のころには「あなたがセカンドになってよかったわ」とも言われた。
 とくに調子の悪いブルーはあまり自ら食事を摂ろうとはしない。
 きっと食堂に行くことすらなく、自室に独り引きこもっていたのだろう。
 そうでなくとも、朝の食事は遅い。
 一日に二食しか摂らないことを、食に関わるプロたちは心配していたのかもしれない。
 そう。みんなブルーのことを心配してるんだ……。
 その期待がすこしずつジョミーに集まっている。
 きっとブルーからの期待もある。
 それが嬉しいようで、辛い。
 そんな期待に応えられるほど、ぼくはブルーを知らない……。 

「ぼくに訊かれてもね、ジョミー。君もしっかりしたまえ。メニューは楽しみにしておくから」

 二つ並べてくっつけたベッドの中央を占拠して、ブルーはジョミーの背を押した。「行ってらっしゃい」と笑う。

「行ってきます。すぐ戻るから、待っててよ」

「ああ、うん。すぐに戻ってはいけないけどね。待っているよ、ちゃんと」

 気分が悪いと起きぬけに言っていたときとは対照的に、すっきりとした顔つきで軽く手をあげる。
 ジョミーもその顔につられて笑い、ブックバンドでまとめられた教科書を手に取った。

「じゃあ」

「ほら、早く行きたまえ」

 急かされて、ブルーへ背を向ける。
 その際、流れ見た窓には未だ雨粒の涙が流れていた。

written by ヤマヤコウコ