序
初夏に生まれたからだろうか。まるで蒲公英の綿毛のように、遠くとおくへ行きたくなった。
実際に綿毛を追ったこともあったのだ。
それは当時のぼくにとって、絵本に読み、憧れた『冒険』そのものだった。
だが、『冒険』をしたそのときにぼくの胸にあったものは、勇者のもつ勇ましい冒険心や正義感ではなかった。ましてや賢者の抱くような、溢れて収束の様子もない探究心や高尚で誇らしいプライドであるはずもない。
きもち、いいだろうな……。
風に吹かれ、きまぐれに舞い上がる綿毛に自らの姿を重ねて、それに憧れた。ただそれだけの些細なきもちだった。
そして、憧れに任せてただ追いかけた。自らの姿を追いかける影のように、自然と身体が動いた。
ぼくは大人の目を掻い潜り、サムたちのいる公園から抜け出した。完全な管理システムの敷かれたSD体制下では、それだけでも奇跡のようなことだ。
普通ならば、付近の大人や警察官に見留められ、一声ことばを投げかけられただろう。「どこへ行くの?」と。
だというのに、ぼくはひとり街へ出た。
色鮮やかな繁華街のなかで、わずかに黄味がかった生成り色の綿だけが唯一、ぼくの瞳の中を彩っていた。
きらきらと陽の光を含み、ふわりと漂う綿毛を追って街を抜け。林を抜け。丘を登った。
――その景色を、ぼくは決して忘れはしないだろう。
そうして辿り着いた場所は、まさに光の絨毯だった。
ふわふわの絨毯は足元といわず踝までも包み込み。見渡せば、それがずっと先まで広がっていた。
風が吹けば、さあっと綿毛がカーテンのように舞い上がり、視界を覆いつくすのだ。
それは魔法のようだった。ぼくは絵本の中へ入り込み、冒険の末に世界を美しくする魔法を見つけたのだ。
やり遂げた! ぼくは冒険を遂げたのだ!
そう、喜びにひとりで内震えた。
胸に隠しきれないほど大きな充実感と誉れを抱いて、ぼくは公園へと駆け戻った。
聞いてよ、ぼくは魔法を見つけたんだぞ。とても綺麗なきれいな魔法なんだ!
自信満々・自慢満々・意気揚々……そんな想いで公園へ足下に砂ぼこりを舞いあげながら滑り込む。
「みんなっ、聞いてよ!」叫びかけて、喉で息が詰まる。ぐっ、と圧縮された吐息を唾液で飲み込むと、いきんだ肩から力が抜けた。
公園の柵外を車がゆっくりと走りぬけていった。また綿毛が舞い上がり、風に乗れずしなりと落ちる。
ちらりと視線を下ろせば、地面に絵を描いていた小さな子どもが、駆け込んできたぼくの勢いにびっくりして潤んだ瞳でぼくの顔を見上げていた。
目の前では子どもが遊び、大人たちは輪を成して談笑をしながらそれを見守る。
ベンチには毎日が休日の老人が本を読み、そのとなりで猫がうたた寝をする。
ぼくが大冒険を果たしたとい
「どう、して……?」
知らず唇が言葉を紡ぎだす。土がぼくの足下で擦れて鳴いた。そんなときになって初めて、掌に痛みを感じた。
「いたっ」
しゃがんでいた子どもが、また、不思議そうにぼくを見上げた。
見れば、掌の中央に小さな赤い線が走っていた。丘を這い上がるときに草で切ったのだろうか。滲む血と同じくらい赤い下をぺろりと伸ばして傷を舐め、痛みを紛らわす。
だが、再びじわりと血は滲み、ちりちりとした痛みとともに、心のどこかで空虚さが幕を広げていく。
あまりの呆気なさで戦う意欲もなくし、舞い上がっていた想いが音もなくそこに閉じ込められてしまう。
「どこ行ってたんだよ、ジョミー」
「……サム」
「お前がいなかったから、サッカー負けちまったじゃん」
サムは不満そうな顔をして、そんな謂れのない言葉を投げて寄越す。さらに気持ちが落ち込んだ。
みんなは子どもだからわからないんだ。
じわりと浮かんできた怒りに、ぼくは頬を膨らませた。
子どもにはわからない。なら大人に聞いてもらおう。パパとママならきっとわかってくれる。
まずはママだ。ママならわかってくれるだろう。
「お帰りなさい、ジョミー」
家へ帰ったぼくを、ママはいい匂いを立てる鍋をかき混ぜながら出迎えた。
ぼくは意気揚々と語り聞かせた。
すこし大袈裟に言い過ぎたかな? そう自分で思うほど、それは素敵な冒険潭になっていた。
途中でパパも帰ってきたので、くり返し語ってみせた。
大好きなママのシチューに、大嫌いなニンジンが入っていることにも気がつかないで、いっぱい喋った。
シチューをほとんど食べ終えてから、スプーンに乗った橙色で気がついて、自分でもびっくりした。
これも魔法かな?
心の奥でドキドキしながら最後の一口をほお張る。
やさしくグラッセされて、ぐつぐつ煮込まれたニンジンは、シフォンケーキみたいにやわらかく口の中で蕩けて消える。
大嫌いなあの味はほんのり甘くてお菓子みたいだ。……やっぱり魔法なんだ!
「またそんな危ないことをしたのね、ジョミー。ひとりで公園とお家以外の場所に行ったらダメって、ママと約束したでしょう?」
手当てをしてもらったぼくの掌を、ママのすべすべの両手でやさしく包んで、ママはそう言った。
その口調は、ママが怒ったときに似ていて、思わずぼくは目を瞑ってしまう。
でも、ママは怒ったりしなかった。目を瞑ったまま、どきどきするぼくの身体を、ママはぎゅっと抱きしめて、
「もういちど約束よ、ジョミー。ちゃんと守ってね」
と、ぼくの頬っぺたへキスをしてくれた。
これも、魔法かな……? それともニンジンもちゃんと食べたから?
怒りんぼのママがこんなにやさしい。
ぼくはママのあったかさでぽかぽかしながら、そう思った。
でも、ママはぼくの冒険をわかってくれていないのかな?
大好きなママにも、大嫌いなニンジンにも魔法がかかっちゃうくらい、すごい冒険をぼくはしてきたんだよ?
「そうかそうか。ジョミーはすごいな」
パパはそう言って、ママに抱きしめられたままのぼくの頭を撫でてくれた。
パッとパパの顔を見上げる。
ほら、パパはわかってくれた。やっぱりこういうときは『おとこ同士』ってやつなんだ。
勇者だって賢者だって、絵本のなかではみんな、パパみたいなつよい男だ。
けれど、パパはぼくに少し笑いかけただけで、夕食の済んだテーブルから立ち上がった。
「でもママとの約束は守らなきゃダメだよ。これはパパとの約束だ」
大きな手がぼくの髪をぺしゃんこにして、かき混ぜる。
そしてパパは、ぼくには読めない細かくて難しい字の並んだ新聞を手にして。やっぱりぼくにはわからない、ニュースとお仕事の世界へ行ってしまった。
そのおおきな背中をぼくは泣きたい気もちで見つめた。
ぐっと唇を噛んで、「お風呂に入りなさい、ジョミー」とやさしくかけられたママの声に、無言でバスルームへと駆け出した。
大きな音を立てて飛び込んだバスルームのドアを閉める。
そしてバッと強引に服を脱いだ。ボタンを外し忘れたシャツが首に引っかかったけれど、力まかせに引き剥がす。
裸になった身体が大きな鏡に全身映りこんでいた。
その肌は日にやけてはいるが、白色人種らしく小麦色とはいえないほど白い。
やんちゃが過ぎて擦り傷は耐えないが、それでもグラウンドで転んだ残り傷が幾つか茶色く治りかけているだけだ。
身体の線も全体的に細く、身長もどちらかといえば小さな方だ。いつもそのせいでサムとのプロレス勝負は負けてしまう。
全然、違うじゃないか。
瞳に映しこんだ自分の姿が涙で歪む。悔しさに唇を噛み締めた。
全然違うじゃないか。
絵本の中の勇者は日に焼けて力強く、賢者だって傷つきながらも冒険を果たすはずだ。
ぼくが果たした冒険は、結局あそびでしかなかったのだ。世界はなにも変わらず、ぼく自身も変わりはしない。
ツンと痛んだ鼻を二の腕で涙ごと拭った。
「……ぅ……っく」
息を止めて堪えても、ぼろぼろと嗚咽がこぼれ落ちた。
ぐしゃぐしゃになった顔を、さらに腕に押し付ける。
ちかちかした瞼の裏に、あの魔法のような景色がいたずらに蘇ってきた。
* * *
そんな悔しい思いをしたというのに、ぼくは大きくなってからも、また、見知らぬ場所を目指してひたすらに自転車を漕いだ。
魔法の丘と名付けた思い出の場所を軽々と飛び越え、どこまでも駆け抜けた。
かつての自分のように冒険をする少年を追い越し、幹線道路でのんびりと走る車を追い越した。
だが、そこで知ったのだ。自らの世界――アタラクシアには果てがあり、そしてそこは分厚い金属の壁なのだと。
知識では既に知っていたことだ。
アタラクシアは健全な子どもを育てる育英都市であり、壁の向こうには大人だけの世界がある。
そこへ行くには目覚めの日を迎えなければならない。
ぼくは丁寧に自転車を路上の隅に留めた。ふわりと夕闇に冷えた風が額の汗を撫でる。
そのあたりは辺境のビジネス街で、人の気配はまったくない。音すらもなかった。
「これが、ぼくの世界の果て……」
喉をぐっと伸ばして、立ちはだかる壁を見上げた。
まるであたりの音をすべて吸い込んでしまったかのように、その壁は静かにそこにあった。威圧感も不自然さもなく、ただ静かにあった。
『世界の果て』と口にしてみれば、なんてちゃちな言葉だろうか。
ブリキ玩具のように硬く軽く、投げればカシャンと他愛のない音を立てて片隅を壊しそうだ。
だが、その言葉に自嘲することもなく、ぼくはすっと手を伸ばした。めいっぱい伸ばせば、すぐにもその壁に触れられた。
あと少し。そんなところでびくりと身体が震え、静止した。
もうぼくに『遠く』はないのだろうか。ぼくの限界はこんなところなのだろうか。
悔しさとも虚しさとも判断できない切ない想いがそうさせた。
手を伸ばしたぼくの背後からうっすらと夕陽が差していた。
ビルに遮られその光は弱く、まるで黒霧に包まれたような人影がぼんやりと壁に浮きあがっていた。
まるでその壁に吸い込まれそうな気がした。ぼくはその影になり、壁の染みとして残るのだ。
留まっていた身体が前へと傾いだ。
手を触れればぼくはきっとそうなるのだ。逃げる気もなく、怖いとすら思わなかった。
頭上を鳥が舞った。
ピィ―――――――――――……。
犬笛のような、高いけれど耳にすんなりと収まる鳴声だった。
「……っ」
ぼくはハッとして頭上を見上げた。赤く染まりかけた白んだ空を影がヒュッと通り過ぎる。
途端、背筋がぞっとした。狂ったように叫びだしたくなって、ぼくは慌てて自分の口元を抑えこんだ。
ここがぼくの果て。ここがぼくの限界……。
背から内臓が凍りついたように冷たくなり、きゅっと身体を丸め込んだ。
ぼくたちは、……ぼくは閉じ込められている。
涙が一粒だけ、口元の手甲にぽとりと落ちた。
ぼくは声をぐっと飲み込んで、停めた自転車に跳び乗った。ガシャガシャと音を立てて、がむしゃらにペダルを踏みつける。
踏み込めば踏み込むほど、前に進まない気がしてさらにがむしゃらにペダルを漕いだ。額から頬へと冷たい汗が流れ落ちる。
「はあ……っ」
大きく息を吐いて、空を見上げた。白けた水色の空に朱色の闇がさらに濃くなってきていた。
その空を背景に、また鳥が視界を滑りぬけた。速過ぎて視界に収まってくれない。
まるでぼくに代わって、ぼくをニヤリと嘲笑しているかのようだった。
ぼくはペダルを漕いだ。鳥籠の格子から少しでも離れたかった。
ぼくの世界は広い。籠の格子さえ見えなければ、果てなどないように。
ぼくはペダルを漕いだ。遠くへとおくへ行きたかった。