一
伏せた顔をぼくはするりとシーツへ擦り付けた。渇いた感触が、やわらかくぼくの頬を包み込む。
「……ジョミー」
ぼくの名を呼びながら、綺麗な指がぼくの金髪を絡めとる。
その指は少女のようにか細い。だが、よくよく見れば細かな筋がところどころに走り、そこに傷があったことを僕に知らせてくる。
それを見る度、胸がざらざらとした感触に包まれた。それが、哀しいのか、苛立たしいのか、それとも他のなにかなのか、いまのぼくには表現ができない。
未来のぼくがそれに言葉を当てはめることができるのか、それすらもわからない。
いまもまた、ちらりと見上げた瞳の端に人差し指を縦断するそれを見つけて、ぼくは逃げるようにシーツに顔を埋めた。
「はぁ……、ジョミー」
その、ぼくの行動を拒否と判断したのか、呆れたようにソルジャー・ブルーはため息をついた。
「なにがあったんだい? そろそろ言ってみたまえ」
諭すようでいて、すこし偉そうな話し方をソルジャーはする。
それがどうにも気に喰わないのだが、同時になぜだかその言葉が素直に受け入れられてしまう。
それが人徳とかその人のキャラクターとかいうものなのだろうか。
「……イヤだ」
「まったく。
強情だねジョミーは」
言いながらソルジャーはぼくの髪をふわりと混ぜ込んだ。
癖が強く、絡まりやすいはずのぼくの髪が、まるで星砂にでもなったかのように、さらさらと梳かれていく。
その感触は温かく、心地よい。
「いいよ」「ここにいていいよ」、すべてがぼくをやさしく受け入れてくれているかのように思えた。
まるで綿飴にでもなったかのようだった。
ふぅ、とシーツに吐息を埋める。心の奥からしっとりと重い気持ちが洩れだした。
不慣れな場所で意識はせずとも身体が芯から疲れていた。
もう慣れた、そう自分で思っていてもどこかで緊張が抜けきらずにいるのだろう。
そうだ。
ぼくはあの世界の果てを――――鳥籠を抜け出したのだ。
あの日見た、鳥のように。
あの日、ぼくが平穏だと思っていた世界は、結局のところ危険や陰謀と隣り合わせの世界だった。
皆が知らないところで、誰かが騙され、泣いて、傷つけられていた。
偽りの平和を甘受していたぼくは、まるで知らず、気付かなかっただけだ。
きっと気を付けて見ていれば、強引に繕われた世界の綻びに気付けたはずだ。
だが、あの鳥はきっと知っていた。
だから、ぼくを嘲笑うように、自身の悲鳴のように、甲高く啼いたのだ。
出してくれ、私は行くんだ。この世界を出て行くんだ、と。
「……読まないでよ、ソルジャー」
額で動きを留めていた手を、起き上がることで払い除ける。
こんな陰鬱な考えを読まれるわけにはいかない。
「おや、すまない。心配を掛けたかな」
ぱっと両手を挙げ、いたずらにソルジャーは笑った。
「そんなに信用がないのか、僕は」
へらりと笑う。その表情は子どもをあやす大人のものだ。
大げさな演技も、いたずらな素振りも、そこに偶然は含まれない。
計算し、わかっていてやっているのだ、この人は。
あたたかく、やさしく受け入れられれば、それだけ甘えたい気持ちが湧き出した。
だが、一旦それを自分に許せば、際限なく甘えてしまうような気がした。
それほどに、いまのぼくは不安定だ。
「この前だって、勝手に長老たちに嫌味を言ったじゃないか」
乱れた髪を指先で直す。
さっきまでさらさらと流されていたとは思えないほど、キシキシと指に絡み付く。
「あれは読まなくたってわかるさ、僕ならね」
ほら、おいで。
見かねたのか、ソルジャーが再びぼくの頭に手を伸ばす。
すこしムッとしたが、大人しくそれに従い、ぼくはソルジャーを背にしてベッドへ腰を下ろした。
それに……、と心の中で甘えられない言い訳を紡ぐ。
それに、いま甘えれば一緒に愚痴や皮肉や非難までもが、簡単に口から飛び出すだろう。それはぼくの真意ではない。
傷つけられ、人間を恨むミュウたちを、ぼくだって理解していないわけではない。
ただ、彼らが仲間を想うのと同じくらい、ぼくも人間を想っていだけだ。
パパやママ、あの平穏な日常を愛しいと想っている。
現状に不満や不安が募るほど、あのときに戻りたいと願ってしまう。
それが偽りだとわかってすら、恨み、騙されたとなじれない。
「しかし、人の関係を取り持つというのは難しいね。いままでしたことなどなかったから余計だ」
絡んだ髪を丁寧に梳き解しながら、ソルジャーはやれやれとばかりに呟いた。
「だが、それが新鮮でいい。ジョミー、君が来てから、このシャングリラには新しいことがいっぱいだ」
「それ。あり得ないこと、の間違いじゃない?」
長老たちは皆言ってるよ。そう語尾に続けようとして、止めた。
視界の端にで揺れる人影が見えたからだ。
腰後ろについていた手が、シーツに押し付けられる。
「行ってはダメだ」と、少し前までは思念で呼びかけていたのに、ソルジャーは最近実力行使に切り替えたらしい。
ぎゅっと手が白い波に沈む。
ミュウの長を守るためのベッドは、どんなに負荷がかかっても、やさしくそれを包み込んだ。
だが、このやさしい心遣いはぼくのためのものではない。
実力行使なら野蛮だと言われるぼくに分がある。
「ソルジャー、もう行くよ」
「ジョミー」
脚に力を入れ、立ち上がる。
ソルジャーがぼくの名を呼んだ隙を狙って、強引に自らの手を取り戻した。
「失礼致します、ソルジャー……ああ、これはジョミーもいたのですか」
カツカツとローブの下で靴音を響かせて、エラ女史が近づいてくる。
不快そうにぼくを一瞥し、すぐにソルジャーへ向き直る。
会いたくはない相手だ。
女史はとくに、ぼくを可哀そうな目で見てくる。それが酷く馬鹿にされた気持ちにさせた。
きっと無意識なのだろう。エラ女史の――ミュウの抱く人間への恨みは、心はおろか肉体の四肢、髪の一筋にまで根を張り、彼女たちのすべてを支配している。
長く生きる者なら尚更に、もう変えることはできないだろう。
ソルジャーの心にも、きっとその根は張っている。どこかで芽吹き、花を咲かせているかもしれない。
一目、ソルジャーを見たい衝動に駆られた。
見たところで、その内に秘めたものを表に洩らすような愚行を、彼は決してしないだろう。
本当はぼくをどう思っているのだろう。
やさしく受けとめておいて、その影で耐えているのかもしれない。
勘ぐりはじめては切りがないが、それでも近頃は気になって仕方がない。
感情を断ち切るように、無愛想に「……じゃあ」と小さく呟く。
しかし、その声は届かなかったのか、ソルジャーはそのままエラ女史に声をかけた。
だから、そのまま背を向ける。
背中で赤いマントが風をはらみ、後ろ髪のように空にふわりと舞う。
「エラ、どうしたんだい?」
「先日の会議の報告を書面でお持ちしました、ソルジャー」
二人の会話にぼくの存在は既にない。
いいんだ、さっさと去ってしまおう。
それと気付かれないように足音を潜め、歩調を速める。
だが、ぼくの後ろ髪はすぐに引かれた。
「ああ……ソルジャー、どうぞそのままで。先の会議でも倒れられたのですから」
……倒れた?
思わず振り返る。そんな話は聞いていない。
振り返った瞳の先で、ソルジャーと視線が交差する。
ベッドから起き上がろうとうつむき加減の身体で、瞳だけがじっとぼくを見つめていた。
ぼくに背を向けたエラ女史の身体の影から、まるで凪いだ水面のような感情の感じられない視線が、ぼくの身体に絡みつき、覆いつくす。
「大丈夫だよ、エラ。ただ、起き上がるだけだ」
心配するエラ女史を気遣う言葉を紡ぎながら、視線はすっと外された。
だが、身体にはまとわり付くような感触が残る。それは喉元にさえ迫り、息苦しさすら感じた。
じわじわと侵食されるような圧迫感。まとわりついたそれを振り払うようにぼくは踵を反した。
足音も歩調も気にせずに駆け出す。
背後でエラ女史が振り返ったような気がしたが、かまうものか。後で「ガサツだ」「野蛮だ」「落ち着きがない」と嫌みを言われたところで、いつものことだ。
それよりも、この悪感をなんとかしたかった。
駆けても駆けても振り切れない。これがミュウの長、ソルジャー・ブルーのものだからだろうか。
「……はぁ、っ」
やっと息を吐いたのは、天体の間の隅だった。
見上げた階段上にはいつもフィシスが居るはずだが、今日は明かりが灯っていない。
「あれは……」
なんだったのだろう……?
ゆるやかな弧を描く階段をのろのろ昇っていく。
一段いちだん持ち上げる足どりは重く、手すりを道標にしなければ身体はくずれ落ちそうだった。
あの時ほどの圧迫感はすでにないが、代わりにじわりと侵食されるような感覚に背筋がぞくりと震えた。
彼の内側を妙に勘ぐった為に、自分自身が見せた虚像だったのだろうか……。
最後の一段を大股に昇り、目の前に開けた空間をぼんやりと見つめる。
バルコニーのようになったそこには、いつもフィシスがターフルを捲る一揃いのテーブルとチェアがぽつんとそこにあるだけだ。
分厚い布に覆われた奥にもうひとつ出入り口があるようだったが、そこに行ったことはない。
恐らくはフィシスの居住スペースに繋がるものだと思う。
それ以上、探るような興味は湧いてこなかった。
「結局、ここはどこなんだろう?」
呟きながら頭上を見上げる。天体の間と名付けられたこの部屋は、中央に大きな映写機が据えられ、大きなプラネタリウムとなる。
その丸い天井は光を持たず、まったく距離が測れなかった。どれだけ高いのか、低いのか、まるでわからない。
この空をあの鳥はどう飛ぶのだろう。逃げ出したはずのこの場所、壁に覆われた限界を超えたこの場所を。
ぼくはそろそろとセットチェアに腰を下ろし、テーブルにうつ伏せて背を丸めた。
ひんやりとした温度が両腕にぴたりと張り付く。
結局、ぼくが冒険を果たしたところで、なにも変わりはしないのだ。
「そんなことをしてはダメよ」と嗜めたママは正しかった。
「どこ行ってたんだよ」と言ったサムは正しかった。
冒険の先にはなにもないことを彼らは知っていたのだ。
冒険に憧れるどきどきわくわくだけを胸に抱き、決してそれを実行したりはしない。
そうして夢を守り、平穏な幸せを愛していた。
「ぼくは、ばかだ……」
無理矢理に、否応なく……なんて言葉はもう使わない。ただ、ぼくはここに来るしかなかった。
冒険をしようなんて気持ちは欠片もなく、ぼくはいまここにいる。
だが、それでなにが変わっただろう? ぼくはなにをしただろう?
額を腕に擦りつける。
ソルジャーの元に居たときと同じことをしているのに、いまは寂しさが胸に満ちた。
「ぼくはなぜここにいるの」
全力疾走の疲労が、大蛇のように重くまとわりつく感覚と共存していく。
広い空間に体温を奪われ、すこし肌寒かった。だが、疲労はいっそう支配を強め大蛇をも凌いでいく。
じわりと袖を湿らせたぼくは、大人しくそれに従うことしかできなかった。