二
――夢をみた。
あの魔法の丘へ昇る夢だ。ぼくの手は小さく、花一つ握っただけでいっぱいだった。
過去の記憶の想起ではない。傍らではあの鳥がピーチクパーチクうるさく鳴いて、右へ左へふわふわ舞っていた。
その姿はともすれば紺色にも見える深い海色だった。翼から洩れる光で、きれいな青色なのだと気づくことができた。
飛び方は落ち着きがない。ぼくの頭一つ上あたりを右往左往、加えて前へ後ろへと飛び回り、すぐ気まぐれに木立の中へ消えてしまう。そして、おもしろそうなものを見つけると、またピーチクパーチクうるさく鳴いてぼくを呼ぶ。
だが、うるさいのは鳴く声だけで、まるで舞い落ちる花びらのように、羽音もなく優雅に飛び回った。
ああ、ぼくは夢をみているんだ。頭の片隅でぼく自身の声が囁く。
「ぴぃっ」
いいものを見つけたのだろうか彼は嬉しげに鳴いて、近くの枝に羽根を落ち着けた。
「来ないの? 来るよね、ジョミー?」とでも言いたげに、小さな首を傾げてみせる。
その嘴には、深海色のその姿に映えるふわふわとした綿毛を銜えていた。
落ち着きなく首を傾げるたび、綿毛が勝手にふわふわと漂っているように見えた。
「なんだよ、お前。変なの」
ぼくは声を立てて笑った。
すると、彼は怒ったように突然枝を飛び立ち、ぼくの頭に綿毛を落として、くるりと一回転してから少し開けた木立へ消えていく。
「待ってよ」
慌てて彼の後を追う。答えるように遠くで「ぴぃ」と声が聞こえた。 だが、安易に前へは進めなかった。膝上まで伸びた雑草が行く手を阻む。こんな場所へ足を踏み入れるのは初めてだ。整備された芝生ばかりを駆け抜けてきたことを、こんなところで思い知った。 自然のままに背を伸ばした草花は、生き生きとして逞しく。足で踏み均そうとしても、大人の腕のように細い足では、なかなか太刀打ちできない。 草を掻き分ける手の平が切れていた。
――ここまで、想い出と同じなのか?
ふと疑問が浮かんだ途端、目の前に光が満ちる。
「……うわっ」
思わず声を上げて、身体を反らせる。安定の悪い小さな身体は、あっさりと地面へ尻餅をつく。
あまりにも強烈な眩しさに瞼を開くことができなかった。どんなに目に手をかざしても光源さえもわからない。
包み込む光はどこにも影を作ることはなく、ぼくの瞳を閉じさせた。瞼の裏だけが唯一の闇だった。
「どこにいるの……!?」
ぺたりと座り込んだまま、手探りで彼を探した。あの小さな姿で、手をとってくれるはずはない。だが、ぼくは無茶苦茶に手を振り回した。
「ピィ―――――――――――……」
ぼくのほんの少し先で彼が鳴いた。その声がソルジャーがぼくを呼ぶ声に重なる。
あのとき。アタラクシアで、ソルジャーがぼくをテラズナンバー5から、引き離したあの声だ。
――――ジョミー――――!
* * *
「ぅ、……ん」
意識がゆっくりと鮮明になっていく。まずはぼんやりした視界が、次に感じたのは甘い香りだ。
花のように鮮やかで、お菓子のような甘い香り――たぶんチョコレート。
次には肌が感覚を取り戻す。冷え切っていると思われた体温は背中に掛かる重さのお陰で予想に反して温かい。
だが、強張ったまま意識を失った身体は予想外に硬く凝り固まり、まるで生まれたばかりのピノキオのように、ぎこちなくしか動かない。
「目が覚めましたか、ジョミー」
テーブルに伏せたままの身体、その目前にコトンと音を立てて、大きめのマグが置かれた。
マグの縁からは、温かいというより熱そうな湯気が立ち昇ってる。
「……フィシス、おはよう」
ふわぁ、と木造のように固まった顎を広げて、欠伸を一つ。
フィシスが白い湯気越しに、ふふと笑った。
「こんなところで眠られて、余程疲れていたのですか?」
「うん。なんか急に眠くなっちゃって」
すこしだけ嘘を吐いた。フィシスとは明るい会話がしたい、いつもそう思っていた。ピノキオならば鼻が伸びてばれてしまうところだろう。
だが、フィシスはいつも通りに目を伏せたまま、ふわりと微笑んだ。
「ホットチョコレートです。リオが貴方にと」
そう言ったフィシスは指先で、ついとテーブルに置かれたマグをぼくの方へと促した。
ぼくは
「ありがとう」
そう小さく呟いて、促されるままマグを手に取った。胸元までそれを引き寄せ、両手で包み込む。
痛いほどの熱さが掌に広がり、一瞬だけ、夢でみた掌の傷を思い出した。
ホワイトチョコの乳白色の水面から、ふわふらと湯気が鼻先へ立ち上っていた。
それを吐息で転がすと、水面はまろやかに揺れ、華やかな花の香りが舞い上がる。
「熱いので気をつけて」
「うん」
なんの花の香りだろう? そう思いながら、マグに唇を押しつけた。
そのまま数度、吐息を吹きかけ、ちろりと伸ばした舌の先で熱さを確かめる。
……うん、飲めないほどの熱さではなさそうだ。
小さく一口だけ口に含み、しばしの間、熱を逃がすように舌の上で弄ぶ。
「あったかい、ね」
言葉を紡ぐと、唇から熱を含んだ白い息が吐き出された。「……ありがとう」
「ジョミー、それはリオに」
「うん。わかってる、会えたら言うよ。でも、フィシスも」
フィシスはほんのすこし右へ顔を傾けて、それならともう一度微笑み、いつの間にか用意されたジョミーの前の椅子に腰を下ろした。
「なにか、心配事でもあったのですか? ジョミー」
「…………」
「そんなことないよ」「ちょっと長老たちにしごかれちゃっただけだ」
そう言って笑えばいいものを、ママを思い出すやさしいフィシスの声と、ホットチョコレートで蕩けた気持ちは嘘がつけなかった。
「ジョミー……」
心配そうな表情が正面からぼくを見つめる。
それに耐え切れなくて眠っていたときのように、両腕に頭を伏せた。
「言わない。言わないからね、フィシス」
「ジョミー……」ぽつりとぼくの名を呼んで、それきりフィシスは黙ってしまった。
どんな顔をしているだろう? 泣いている? 怒っている? それとも困りきった顔をしているのだろうか。
確かめるのが怖くて、ぼくも顔が上げられなかった。
「――ブルーエの蜂蜜が隠し味なのだそうです」
「……え?」
「リオがそう言っていました」
フィシスは、そっと伏せたぼくの頭へ触れた。
顔を上げなくていい、上げないで、という想いがその仕草から伝わってくる。
「ブルーエはとても綺麗な青い花です。ソルジャーと同じ名だからと、このシャングリラで一番初めに育てられた花なのですよ」
フィシスの指先は、ソルジャーのそれとは違った。
同じように細い指先だというのに、まるで巣から落ちた小鳥を撫でるように、そっとそっとぼくのくせ毛を撫でる。
「花言葉は信頼。これもミュウたちがブルーエを育てた理由です。ソルジャーへの信頼を、ブルーエで示したかったのでしょう」
けれど……、とフィシスは続けた。「けれど、それはミュウたちの弱さの現われでもあったのかもしれません。それだけの期待を、信頼を、希望を、ソルジャー・ブルーは背負ってきました。それは同時に、彼らの、私の欲望を一身に受けていたのだとも」
フィシスは震える語尾を押し隠して、小さく吐息を吐き出した。
そこに怒りがあるのか、悲しみがあるのか。やっぱりぼくにはわからなかった。
「ジョミー、私の話を聞いてくださいますか……?」
問われるとは思わなくて、一瞬迷った。
だが、聞かなければいけないと思った。
フィシスもまたぼくと同じように、ずっと誰にも言わず、自分が忘れるのを待っていたのだろう。いま、それをぼくに話そうとしている、そんな気がした。
「……うん」
「思念は想いの力、感情の力です。
いつも穏やかなソルジャー・ブルーは、もっとずっと豊かな感情を持っているのではないでしょうか。
喜怒哀楽、そのすべてを私たちのために犠牲にしているのではないでしょうか。
私は……私は一度も、ソルジャーが怒るところを見留めたことはないのです」
声色だけで、フィシスがしゅんと肩を落としているのがわかった。
フィシスは、ぼくと同じように、ソルジャーがシャングリラへと導いたミュウの一人だ。
そして、ずっとずっと、ソルジャーの一番近くで彼を見つめてきた。
きっとぼくと似た感情とぼくとは違う想い、そのどちらをも抱きながら、誰にも吐露することなく、ずっと過ごしてきたのだろう。
前髪を撫でてから、フィシスの手が離れていく。
髪にはほんのりとあたたかな体温が、花の香りのようにふわりと残る。
「……フィシス」
ぼくはゆっくりと顔を上げた。そのままフィシスの顔を直視する。
その表情は泣きそうでも、傷ついているようでもなく、ただ愛しい人を想って心配そうだった。
それでいて、どことなく晴れやかでもある。
「ジョミー。あなたが来てから、ソルジャーはよく笑うようになったのですよ。
そして私に独り言のような悩みを語るのです。今日はジョミーが思念波で語りかけてくれたとか。ジョミーが悩んでいるのだとか」
胸の前で手を合わせ、フィシスはその細い指を絡ませた。そして、まるで祈るようにその手に唇を寄せる。
「あなたのことを、一番想っているのはソルジャー・ブルーです。あなたの置かれた立場を、最も思いやれるのも。
あなたの気持ちを、私には話せなくてもいいのです。けれどどうか、ジョミー、あの人には話してください。
なじっても、ぶつけてもいいのです。あなたまで感情を隠してしまわないで」
ね?、とフィシスは少女のように微笑んだ。その微笑みの奥に、ソルジャー・ブルーの笑顔が透けて見えた気がした。
きっとフィシスはその笑顔でソルジャーの笑みを受けとめ、二人で微笑み合うのだろう。
自然と自分の頬が緩むのがわかった。ぐいとマグに残ったホットチョコレートを飲み干す。
「だけど、フィシス。ソルジャーはぼくには何も言わないんだ。大事な事だって」
「大事なこと……?」
あら、とばかりフィシスの眉根が不安気に寄せられる。
「会議で倒れたって。ソルジャーがぼくのために無理をしてるって、そんなこと、ぼくだって知ってる。ぼくの成人検査を邪魔したときも、ぼくの暴走を留めたときも。アルテメシアを離れたときだってそうだ」
そのためにどれだけのミュウが彼を憂え、同時にぼくへ怒りをぶつけてきたことだろう。
ミュウにとって長たるソルジャーはなにものにも代えがたく、自分たちを支える礎なのだ。
ぼくにとってもそうだ。未だに馴染めない、疎外感の強い艦の中で、唯一あの青の間だけがぼくの逃げ場所なのだから。
「似た者同士なのです、ジョミー。あなたも、ソルジャー・ブルーも」
……似た者同士。口の中でぼくは繰り返した。
「互いを思いやるばかりで、結局は相手に拒否されるのを恐れている――。よもや、こんなことをソルジャーに感じるなんて」
ふふとフィシスは嬉しそうに笑った。
「可愛いと、そう思うのです。ソルジャーを。
慣れないことに懸命に取り組んで。あなたのためにと、あなたを想って右往左往を繰り返して」
フィシスは空のマグを握ったままのぼくの手に、なめらかで綺麗な手をそっと添えた。「でも、ジョミー」
「本当の想いは、言葉にしなければ伝わらないのです。それが、喜びでも、怒りでも、哀しみでも、楽しい事でも」
きゅっと手が握り締められる。フィシスの手がいまは冷たく感じられた。彼女もまた、言葉にしなければ伝わらないと覚悟を決めてくれたのかもしれない。
「……うん」
フィシスの言葉を聞きながら、自らに向けられたソルジャーのあの瞳を思い出していた。
大蛇のように絡みつく感覚。逃げ出したくなるほどの圧迫。あれは、言葉にされないままソルジャーの中で捨てられた彼の感情の欠片ではなかったのか。
フィシスの言うとおり、きっとソルジャーはもっと感情の大きな人間に思えた。
ぼくのように起伏は激しくなくとも、その幅はゆるやかに広大なのではないだろうか。
「ああ〜」と気の抜けた声を上げて、ぼくは握り合った二人の手にうつぶせた。
「……甘えても、いいのかな」
「ええ。きっと待っています」
フィシスはさきほどと同じようにやわらかく笑った。その瞳が開いていたなら、星の瞬きのようなきらきらとした瞳が見えただろう。
きっとぼくのことも可愛いと思っているのだ。
まるで、ママに世話を焼かれているかのように、くすぐったい気持ちが胸に溢れた。嬉しくて、恥ずかしくて、心地いい。
「ありがと」
小さく呟いて、目を伏せる。「はい」とフィシスが微笑んだ。