ブルーが焦げた銀色の壁面に手をかざす。そのコントラストに、布に包まれた手が月光を放っているかのように見えた。
「どうやら補助電源は生きているようだね」
壁面を撫でるとグローブの布地が擦れ、ざらりと砂のような音がした。相当に劣化しているのだろう、本体を保護するはずの塗装がささくれ立っている。その壁面に添えた手の甲に、彼は額を寄せフィシスのように物質へ思念を通わせていく。
その背後でジョミーはぼんやりと宙を見上げた。思念で覆った酸素層の向こう側に、巨大な鈍色の建造物が聳え立っていた――いや、聳え立つというのは正しくはない。ジョミーが居るのは浮遊しか出来ぬ宇宙空間であり、脚を据えているのは眼下の星の衛星軌道を巡る廃棄された研究ステーションだ。だというのに、それはまるで深い森の奥にどっしりと根を張った森の主たる巨木のような威厳と神聖さ、そして儚さすらもって、そこに在った。ジョミーに「聳え立つ」と表現させたのはそんな存在感のためだろう。
青の間での会議を終えたブルーは、ジョミーが驚くほど速やかに準備を終えた。あの言い争いからものの三十分と経っていないというのに、二人はこの廃棄された研究ステーションの外壁にいるのだ。
あの様にはさすがのジョミーも長老たちが哀れに思えた。なにせ、ブルーは長老たちがせめてもと求めるのも聞かず、無謀にも生身のままでシャングリラの艦外へと飛び出したのだ。
「我が身だけで充分だよ」
堅苦しいのは好きではないんだ。と、ブルーは追って行ったジョミーにゆらりと身体を翻して見せた。その口元には、苦い笑みが浮かんでいた。ブルーは長老たちの想いを汲んでいないわけではない。彼らの想いに愛しさを抱きながら、同時にそれに絡め取られることを嫌っているのだ。そうしなければ、まとわりつく蜘蛛の巣のようにいずれはブルーの身を拘束し、害を為す。ブルーへの害はつまりミュウへの害なのだ。
「お城みたいだ」
ジョミーはここへ辿り着くまでの経緯を胸に仕舞い、未だ壁面に意識を集めたまま動かぬブルーを横目にぽつりと呟いた。
見上げるステーションは、研究施設としては不似合いな造形をしているようにジョミーには思えた。左右のほぼ中央に、ペンのように尖った最も高く太い塔のような突起が据えられ、その塔を取り囲むようにほぼ同型の大小さまざまな塔が立ち並んでいた。中央と両端の塔には展望室なのだろうか、カメオ型の縦に長い楕円をした窓が他の壁面とは異なるつるりとした闇を含み、いまにもそこから悪魔が這いだしてきそうだなどどいう悪い夢想を誘う。
壁面はもともとなのか、それとも近くの恒星に照らされ荒れたためか、燻された銀色をしていた。その表面は塗装のささくれ以外に凹凸はない。だが、無酸素下では発育しないはずの宇宙蔦が壁面に添って蔓を伸ばし、細密で歪な模様を描いている。それがまたジョミーに、童話に登場する茨を思い起こさせた。
「……ジョミー?」
膝を折り、足もとを探っていたブルーがジョミーを振り仰ぐ。しかし、ジョミーはステーションを見上げるのに夢中でそれに気付くことが遅れた。ジョミーが反応したときにはブルーは立ち上がり、ジョミーのとなりに肩を並べていた。ブルーも顎をあげて上部を見上げ、ジョミーも再びその宇宙空間には不似合いな造形に視線を向ける。
「お城、みたいだと思って」
そうだね、とブルーは表情を変えず、むしろ睨みつけるような瞳をして塔の群れの輪郭をなぞっていく。
「百年、いや二百年にも近いかな。それほど前に流行ったのだよ。旧世紀の文化をこのSD体制下にある現代に復元し、織り交ぜようという遊び心だ」
「へぇ……」
面白そうだとジョミーは感嘆の声をあげた。だがブルーはそれに苦笑を向けると、マントを翻しジョミーの背後へと再び片膝をついて屈みこんでしまった。
「それほどまでに、彼らには余暇や仕事を楽しむ余裕があったということだろうね。美しく造ったところで、必要がなくなれば簡単に廃棄する。それではなんの意味もないだろう」
カチャリとブルーの手元が薄暗い口を開けた。その影に手を伸ばし、ブルーは緊急用のドアコックを握り締め、力を籠めてぐっと捻る。
「大切なのはその内側でなにを為し、なにを愛するのか……」
捻ったドアコックの脇からわずかに白い蒸気が立ち昇る。そのせいでジョミーには呟いたブルーの表情が見えなかった。白い靄の向こう側で蒸気に髪を遊ばれながら、ブルーは視線を中央の塔へと向けていた。このステーションが建造された百年かもっと前に、彼がなにをし、なにを想っていたのか。ジョミーはその片鱗すら知らない。ジョミーの知るブルーの過去は、ほんのほんのひと欠片だけだ。
さびしい。眉が八の字を象る。じわじわと背中に冷気が這い、ジョミーはぶるりと身体を震わせた。
「ジョミー」
すっかり蒸気の消えたドアコックの脇にブルーが立っていた。片手をジョミーのほうへと差し出し、「こちらにおいで」と誘っている。
ジョミーはそれに素直に従い、ブルーのほうへと地を蹴った。身体が軽重力にふわりと浮き上がり、先に届いた指先からブルーのマントにくるりと抱きこまれる。互いの空気層が重なり合い、ジョミーはふわりと温かなブルーの匂いに包まれた。胸いっぱいにそれを吸い込んで、腕の内側からとなりのブルーへ笑いかける。ブルーはそれに頭をほんのすこし傾けて応えた。
「ほら、開くよ」
ブルーの言葉に促され、最も手前の小さく太い塔へと視線を向けた。塔を縛り付けていた宇宙蔦がいままさにギリギリと唸り声をあげ、閉ざされていた扉がその腹に漆黒の隙間を拡げていく。
ぶちりと大きな音がして、絡まりあって太い綱を成していた蔓がその繋がりを強引に引きちぎられる。破片が空間に勢いよく散った。
「ジョミー――っ」
名を呼ぶ声とともにいっそう強く抱きしめられ、目の前が藤色に包まれる。ブルーは蔦の破片をしばしマントで防いでやり過ごすと、周囲に散らばる細かな欠片を払うためか大げさにマントを舞い広げた。「……ぼくも、着てくればよかった、かな」
自らの肩に手を添え、ジョミーは傍らのブルーを見上げた。ソルジャーを示すマントとチュニックを、いまジョミーは身に着けていない。特別な存在だと誇示をするあのマントは、重くおもくジョミーの身体に負荷を与え、心までも重くさせた。まるで鉛を身に着けているかのような気分にさせるのだ。
アルテメシアにいた頃は、それでも与えられたものだとそれを耐え背負っていた。だが、星を離れて宿り木を失ったシャングリラと、眠りのときが長くなるばかりのソルジャー・ブルーに、長老をはじめすべてのミュウたちは不安な感情を高まらせた。八つ当たりのような不安と重大な期待を含んだ彼らの視線は、日に日に鋭くジョミーの背に垂れる真紅のマントに突き刺さり、その負荷を倍増させていた。
毎朝マントを身に着ける度に泣いて暴れたくなった。乱れた思念をコンパートメント中に撒き散らしていたためか、夜には足もとで身体を丸めていたナキネズミも、いつの間にかジョミーが朝に目覚めるころになると姿を消すようになっていた。
いまの自分には重すぎる……。
とうとうジョミーは、特別必要なとき以外にはそれらを身に付けることを止めてしまった。そうしなければ、身の内に潜んだ泥のような感情を爆発させてしまいそうだったのだ。
しかし、戦場の最前線に立つであろうソルジャーに与えられるあのマントやチュニックには、とくに強固な防護性が備えられている。こんなときくらいは着てくるべきだった。そうは思っても、やはり、あのマントを着けると思っただけでにわかに気分は滅入り、ジョミーは自然と顔を俯かせた。
「……ジョミー」
やさしい声が鼓膜をくすぐり、額にこつりとブルーのそれが触れる。右の頬が掌に包まれ、親指でまるみを帯びた唇を撫でられた。ジョミーはしずしずと上目遣いにブルーの双眸を見上げた。「しっかりしたまえ」と諭されると思っていたのに、意外にもその紅い瞳は目尻が落ち、弓のように笑んでいた。
「必要はないさ。こうして傍に居れば済むだけの話だろう?」
「でも」
「そのくらいの役得はくれたまえ、ジョミー」
「せっかく二人きりになろうと小煩い制止を振り切って来たのだから」と、ブルーは嬉しげに笑い、ジョミーの頬に添えた指を輪郭沿って滑らせるとゆっくりと顎で留めた。俯いた顎を指一本で強引に上向かされ、軽いキスを施される。
「ブルー……」
「さあ。行こう」
マントの絡まりついた腕がジョミーの肩を抱く。これでいいだろう?、とばかりブルーはジョミーの顔を覗き込むようにして微かに苦笑した。
目の前には、身体二つ半ほどの幅の通路がまるで熊穴のようにぽっかりと口を開いている。先は暗く、ほとんど見ることはできない。だが、補助電源が生きていると言ったブルーの言葉通り、先ほどのドアの開閉に刺激されたのか、穴の奥のさらに奥に蛍の光ほどのわずかな灯りがちらついて見えた。
肩を抱く手にほんの少し力が籠められ、ジョミーの歩みを促す。ジョミーはそれに従い、足元に落ちた蔓の欠片を踏みしめながらその城へと足を踏み入れた。