Arthur

――――それは『矛』だ。
 ブルーは大きく息を吐いた。脱力して全体重を背凭れ付きのベッドに預ける。ぽすんと可愛らしい音がもれ、ふわんとやわらかくベッドが揺れる。
 薄く眸を開けば、いくつかの背がのしのしと左右に揺れながらゆっくりと離れていく。その光景を自らの掌で遮った。このベッドを囲む灯かりは眩しすぎる。
 ああ、はやく行ってくれ。ちからの入らぬ身をさらにシーツへ沈める。知らず、また深呼吸にも近いため息が洩れた。ぞろぞろと連なる足音が、思念が、のろのろと遠ざかりやっと扉の向こうへ消えていった。それを確認して身を起こす。起き上がろうと腰の脇についた手に力が入らず、ぶるぶると震える。こんなにも老いたのか、と思うとともに、これが恐怖からくる震えでなくてよかった、と安堵する。
 身体を捻り、シーツから抜き出した両足を床につける。カツンと無機物的な音を立て、両脚で直立する。一瞬、意識が遠のくがすぐに取り戻す。ああそうだ、眩しすぎる灯かりの所為ということにしておこう。
 立ってみれば、ベッドで休んでいるときよりもいくぶん気分がよかった。ため息の代わりに、深く息を吸い胸をいっぱいにする。こめかみがキリリと痛んだ。まだ、ここには『矛』が残っているらしい。残留した思念が空に溶け込み、漂っているのだろう。
 ブルーは、ベッドの周囲に張られた大きな天蓋の幕を捲りあげた。そこには、人が一人やっと通れるだけの小さな闇が広がっていた。躊躇いもなくその闇へ身を投じる。これだけ煌々とした場所にいたのだ。少しくらい闇に包まれるのもいいだろう。
 そう、思念は空に融ける。
 ブルーは闇の中、手探りで道を辿った。足元は細かな階段が連なり細い螺旋を描いている。目先は闇、もしかすると僕はメビウスの輪を巡っているのかも、と自嘲する。
 そう、思念は空に融け、水に滲み、炎とともに舞い上がる。
 その性質を、いつだか誰だかが調べようとしていたが、依然として解明はされていない。ブルーとしては、そんなことは無駄だと考えていた。思念――ひとの想いに均一な形や性質などないのだ。あるとするなら、その人物の個性だけだ。水が好きな者の思念は水に滲みやすく、炎のような熱血漢の思念は舞い上がりやすい……かもしれない。
 ただ一つ言えるのは、思念には想いを抱いた人物の感情が顕著に表れる。まぁ、当然だ。それが『思念』というものなのだから。
 しかし、そうであれば、晴れやかな思念は綿毛のように空へ舞い上がり、暗い思念は重く血へ沈むのだ。もしかすると、ただ単に人の『性質』でも、思念の軽重は決まるのかもしれない。とりあえず、とブルーは立ち止まり耳を澄ました。さらさらと草原の自然が風に遊ばれているかのような音がかすかに補聴器を通じて耳へ届いた。その音に招かれるように、再び歩き出した歩調は先ほどのものよりいくぶん軽やかになる。仄かな明かりが闇を薄めていた。歩調を速めるにつれ、その明かりは強くなる。だが、ベッドの周囲を埋め尽くす、あの純白の無機質的な灯かりではない。まるで、やさしく包まれるかのようなやわらかな明かりだ。
 そうだ。思念に軽重の性質があるならば、ブルー自身の思念は空より重いのだろう。
 ブルーは、今度はぽっかりと開いた明かりのもとへ飛び込んだ。いや、飛び出した。一瞬、視界が白で覆われ、だがすぐにゆらゆらと水鏡のように景色が現れる。
 そこは、楽園だった。樹木が生い茂り、その合い間に、拓けた場所が見える。そこは芝と砂が半々で地面を占め。砂の先には泉が延びている。泉の先はすぐに壁が表出していた。それだけ小さな空間だった。
 壁には音もなく水が伝い落ち、終始泉を潤していた。その傍らで、まとまった水が上部からさわさわと微かに音を立てて落ちてきていた。
 ブルーがひたすら階段を降りてきたここは、青の間の下層部。青の間の下部で湛えられた水を得て成された空間だった。
 ブルーは深く息を吸った。心地よい、ここは自らの思念に満ち、身体にちからが宿る場所だ。
 そう、なぜだかここにはブルーの思念が溜まりこんでいた。とくにマイナスの感情でも、プラスの感情でもないが、やはり自らの思念に包まれれば必然的に居心地は良くなる。身の内から出たものはどんなものでも、もとの身体には馴染むものなのだろう。
 しかし、いまのブルーはとくに顕著だ。
 ブルーは樹木を抜け、芝の上に腰を下ろした。落ち着いてみれば、しっとりと水分を含んだ空気が身を包み、わずかに寒さを感じる。
 思念は『矛』だ、とブルーは考えていた。ミュウはその矛を繰り出す技術を持つ者だ。そして、その矛を受ける『盾』を持つ者でもある。逆に言ってみれば、盾を持つから互いに矛を繰り出せる。
 いまのブルーは、その『盾』が弱っていた。老いの所為もあるのだろう、矛として発する思念はもとからさほど強くない性質であったが、ここにきて他の者の矛を受けるはずの盾が弱り、無闇な思念に晒されている。彼らは、ミュウならば当然『盾』を持っているものとして、強い感情を繰り出してくるのだ。だが、ブルーにはそれを受けきれず、傷つく。傷つかないためには、意識して思念の盾を造り続ける他ない。
 長老たちとの会議では、ときに彼らが言葉を荒げ、感情を激しく散らす。その防御にブルーがどれだけ、僅かな思念をすり減らしていることか、彼らには決して伝えられはしない。伝えれば、直ちに大事にされ、ベッドへ押し込められるだけだ。だからといって、彼らはブルーの言葉を得ることを止められはしないし、ブルーの独断に一方的に従うこともしないだろう。
 まったく、困ったものだ。そう苦笑するブルーの唇の端は持ち上がる。どこまで行こうとも、彼らは同志なのだ。どんなに彼らがブルーをミュウの長と敬おうとも、ブルーにしてみれば敬仰される謂れはない、ともに苦境を乗り越えてきた同志だ。幼なじみのような、あるいは子どものようなものでもあるかもしれない。 ふっと、頭上を見上げる。花の香りのように華やかな思念が近づいていた。

「ソルジャー?……ブルー?」

 ベッドにブルーがいないとみて、探しているのだろう不安げな声が耳へ届く。普段の彼はブルーのことを「ソルジャー」と呼ぶが、ブルーがとくに「名で呼んでくれと」強く言うので二人のときは名で呼んでくれる。やさしい子だ、と改めて思う。そんな想いを抱くと、冷えた身体がほんのりと温まるのを感じる。

「ジョミー、ここだよ。降りてきたまえ」

 またか、と呆れたため息を彼が吐いたのがわかる。そして

「いま行く」

 と、声を張り上げると同時に地を蹴った。青の間を伸びた通路から空へ身を投じ、ブルーが一歩一歩下ってきた空間を一気に降りる。無謀で野蛮な方法だと、長老たちならば失笑するだろう。だが、ブルーは彼らしいと思える。しなやかに跳躍する快活な身体。完全なミュウ。彼こそがブルーの求めていた、そして本当に敬愛すべき存在だ。
 青の間の最下に来たジョミーは、砂時計のように水の流れ落ちる窪みへさらに身を投じる。当然ながら全身が水浸しなのだが、それを彼は躊躇わない。
 ブルーが声をかけて一分と経たず、ジョミーは泉の中心へ姿を現した。その瞬間、すっと空気が華やぐ。これまでのブルーの思念で満ちた空間が、どれだけ単調で澱んでいたか、こんなときばかり解るのだ。ブルーにとっては居心地がよくとも、他の者にはそうではないのだろう。だが、ジョミーの思念はそうではない。まるで草木がすぐにでも花を咲かせそうなほど、瑞々しくちからにあふれている。
 ジョミーは泉の中心から、ぷるぷると仔犬のように水しぶきを飛ばしながらブルーへと近づいた。

「ブルー、またここにいたの」

「君もまた濡れてきたんだね。風邪を引いてしまうよ」

 いいじゃん、そんなの。この方がはやいし……。と、ジョミーはいじけて言葉を連ねる。それを、ああ、はいはいと受け流し、頬に残る水滴をグローブをはめた指先で拭ってやる。

「今日の会議も長かったね」

「ああ、そうだね。すこし揉めていたようだ」

 「ようだ」ってブルー……と、ジョミーは眉を捻りあげる。

「まじめな顔して、実はいっつも暢気だよね。案外」

「そうでもないさ。一応、彼らの話はきちんと聴いているよ。ただ、ぼくだけの判断で決断はできないからね」

 ジョミーとの会話は軽い。だが、軽口をきいたところでハーレイのように窘められもしない。ハーレイはどうにも固くていけない。ジョミーに近い話をできるとすればヒルマン教授だが、彼は長老たちのなかでは比較的若年の部類に入り、どうしてもブルーに対し他愛のない会話を成してくれない。残念な限りだ。

「ブルー……、疲れてる?」

 マントに纏わりついた水滴を払い、やっとブルーを向いた新緑色の眸が尋ねる。ジョミーだけは、ブルーが盾を持たないことを知っていた。そして彼は、それがアルテメシア上空で起こした自らの悪行の所為だと思っている。あのときの傷など治って久しいというのに、どうにも他のミュウたちがその件でジョミーを責める意識を持ち続けて、彼自身もそれを信じるようになってしまった。当人であるブルーがどんなに否定しようとも、頑として考えを変えない。そんなにも、彼に向けられた視線は鋭いものなのだろうか。

「ああ、すこしね。気にするほどのことではないよ」

 そう言ったのにジョミーは不安に眸を揺らめかせ、ぎゅっとブルーの痩身へ腕を回して抱きついてくる。

「ジョミー」

「ごめん。ぼく、今日もポカやったし」

 ああ、そういえば長老たちがそんな話をしていたかも知れない。ジョミーのやんちゃな思念訓練など日常茶飯事で、ほほえましく聴いていたものだから大して意識もしていなかった。

「大丈夫だよ、ジョミー。そのうちできるようになる」

 ジョミーの強大な思念を自在に操るには時間がかかるだろう。とくにブルーが強引に引き出したとも言える方法で能力を得たのだから、徐々に能力を明現化してきたミュウたちとはそもそもから異なる。
 ジョミーはもともと、『盾』のみの人間だったのだ。その思念の力すべてを用いて強靭で最強の盾を成していた。だからこそ、人間たちの行う深層心理検査をくぐり抜けて来られたのだ。実際、シャングリラに来たジョミーは、はじめこそミュウたちの奇異や蔑みといった思念の矛に晒されていたが、すぐにそれらを排外するようになった。矛を繰り出す技術はなかったが、自らを守る盾は常に持ち、矛にすら勝つ剣を彼は身の内に宿していた。
 かつて旧歴史時代の英雄王アーサーは、岩の台座に突き刺さった聖剣を得てその英雄たる道へと進んだという。ジョミーにも、矛や盾とは異なるその力をもってミュウを守っていってほしいと願う。聖剣がその能力の強大さゆえに爆発するというのなら、自らを賭してその鞘にもなろう。

「ブルー」

 時間が経つにつれ、自ら抱きついているのが照れくさくなったのか、ジョミーが身じろぐ。だが、離しはしない。ジョミーの身体に回した両腕を強く引き、彼の身体を両腕に抱き込む。ぎゅっと胸と胸が重なれば、初夏のような温く暖かな想いが満ちてくる。

「ジョミー、すまない。しばらく、このままで――」

 顎を彼の肩に押し付け、掻き抱く。緩んでいたジョミーの腕にも再び力が宿り、「うん」と微かに頷きを反してくる。
 そう、それは矛盾だ。老いを感じ、次代の長をと愛しんできた存在と、ともにずっと生きたいなど。
 だが、矛と盾とは異なる剣を持つジョミーなら……と儚いゆめをみる。いけない、と自ら振り払おうとも、溢れる想いは止められず、ジョミーの想いに煽られてさらに増す。
 そう、死ぬのは今すぐではない。まだ、生きている。このあたたかな想いを甘受して、そして彼の為に逝こう。だからいまは、ぼくに力をわけておくれ。

「ジョミー、愛しているよ。ずっと」

 突然の言葉にたじろぐはちみつ色の髪に口づけ、ブルーはそっと眸を閉じた。愛しているよ、ぼくの愛し子。ぼくの太陽、――ジョミー。

written by ヤマヤコウコ