目が覚めたら、そこは真っ白な空間だった。
ここはどこ?
ゆっくりと身体を起こすと、胸の辺りから糊の利いたシーツがずり落ちる。
ここはどこ?
シーツを捲った。その手を見る。
本は、本はどこ? ママに、ママにもらった大切なピーターパンの本だ。
慌てて辺りを見回す。視線の届く範囲に本はなかった。
瞳に涙が滲む。こんなことでなんだ。泣くなんてぜんぜん男らしくない。
パパの言葉を思い出した。そうだ、男は簡単に泣いちゃいけないんだ。シロエは腕でぐいぐいと無理やり涙を拭った。
「ああ。起きたか、坊主」
突然の声に驚いて、声のしたほうを振り返る。軽い空気音と共に開いたドアから白衣の男の人が入ってきた。後ろには同じように白い服の女の人を伴っている。
「気分はどうだ?」
その男の人は、よいしょと呟いてベッドの脇にあった簡易椅子に腰掛けた。最も目を引くのはロールパンのように丸まった頭、そして太い眉、そして白衣を着ているせいでさらに黒く見える肌。まるでシロエとは違う。同じなのは髪の色くらいのものだ。
だから怖くて身体を引いた。軽くかかっていたシーツがベッドを滑り落ちる。
知らない場所、知らない人、そして手元にない本。
だが男の人はそんなシロエの姿を見て、おや? と間抜けに顔を歪めた。さらに、そうかそうか、と数度頷いて、その大きな手をシロエに伸ばす。
「シャングリラにようこそ。ここの医者のノルディーだ」
シャングリラ、聞いたことない地名だった。この前、世界地図を暗記してみたときにもそんな地名はなかったはずだ。
シロエはあまり怖さに顔を左右に振った。目の前のノルディーは笑っているというのに、それがさらに恐怖を煽った。
いやだ、ここはどこだろう。パパは、ママは……?
「ママ……」
呟いた途端に記憶が蘇る。ここで目覚めるすぐ前の記憶だ。ママが、ピーターパンに弾き飛ばされて、床に、倒れた。
「ママ!」
帰らなきゃ! ママが、ママが!
シロエは転がり落ちるようにベッドから降りた。くしゃくしゃになっていたシーツが脚に絡み付いて、進もうとするシロエの邪魔をする。それでも無理やりに進もうとしたシロエは脚がもつれて床に転んだ。
「お、おい」
ノルディーが腰をあげ、シロエに手を伸ばす。それより先に、控えていた女の人がシロエの目前にしゃがみ込んで、白く細い手を差し伸べた。「大丈夫?」と女性らしい高音の声が手と共にシロエに近づく。
ママみたいだ。そう思うと同時に、ママじゃない、と強い気持ちが湧き上がる。
ママじゃない。触るな!
シロエは涙で滲んだ瞳をぎゅっと閉じた。
「きゃっ……!」
高音の悲鳴があがる。
驚いてシロエが目を開くと、そこに居たはずの女の人はいなかった。ぐるりと左右に顔を巡らせる。だが、その顔は元の位置へ戻った。女の人は、居たはずの場所からその奥の壁へと移動していた。
まとめ上げられていた髪は解け、身体をだらりとほおり出している。シロエは真夏の暑さに倒れた近所の犬を思い出した。
「大丈夫か!?」
シロエが呆然とその様子に目を奪われていると、女の人の下へノルディーが駆けていく。
……逃げ、なきゃ。帰らなきゃ。ママ……!
「あ、あ……わああっ!」
シロエは足元のシーツを振り払い、ベッドの下をくぐり抜けて、開いたままだったドアへ向かった。
「シロエ!」
その背中にノルディーの声がかかったが、シロエには聞こえなかった。
ママ、ママ、ママ……!
シロエは向かう当てもなく、ただ脚を動かした。