物陰で熱い息を吐く。だが握り締めた手は対照的に冷きっている。
シロエは一段暗くなった通路から、先ほど駆け抜けてきた広い通路をチラリと覗き見た。
青白い電灯が照らしだした滑らかな通路。アーチ上の天井から床にかけてはシンプルな、けれど凝った装飾の成されている。これまで暮らしていた街エネルゲイアはどちらかというと機械的なものが多く、その装飾は芸術的にシロエの瞳へと映った。
こんな場所はきっとエネルゲイアにはない。ここはどこだろう。
悩むシロエの視線の先を人が駆けて行く。シロエを探しているのだ。身体を不安が襲い、瞳に涙が滲んだ。パパ、ママ……!
だが泣いてはいられない。逃げなければ。どこでもいい、少しでも見つからない場所へ。
シロエは背を向けていた通路を見つめた。路地のように薄暗い通路は否応なく、シロエの恐怖を掻きたてる。
捕まるか、恐怖か。どちらも怖い。ならば少しでも可能性のある方へ。シロエは喉をゴクリと鳴らして、薄暗い通路を歩き出した。真ん中は怖いので、せめて薄明かりの灯る壁際を歩いた。
一歩進むごとに闇は深くなっていった。もうどれだけ来ただろうかと振り返れば、広い通路の光は煌々と見えた。
こんなに近くちゃダメだ、もっと遠くへ。
だが足はなかなか進んではくれない。
シロエの意気地なし!
自分を詰り、励ます。ぎゅっと瞳を閉じると目尻から涙の粒が頬を伝い落ちた。鼻がツンと痛む。
捕まってもいいのか、シロエ!
勝手に止まった足を両手で叩き、そのまま服の裾を握り締める。情けなかった。パパの息子なのに、ママの息子なのに。優秀だ優秀だともてはやされたシロエは、その小さな身体に大きすぎるプライドを持っていた。だが、それらは今やこんなにも無力だ。
……こんなことに負けるもんか!
そしてシロエは目を閉じたまま駆け出した。
駆けてかけて、そしてシロエは最も暗い場所へとたどり着いた。瞳は闇に慣れていたが、それでも空間の広さが掴めないほどに暗い。シロエの背筋を恐怖が這い上がる。
ここ、どこだろう。
シロエを追う気配はないが、どこへ行くべきかもわからなかった。街で迷子になったら、ポリスへ行けばいい。これまで教えられてきたことがここでは何の意味もない。
ふらりとシロエは一歩を踏み出した。
「……った!」
だがそのつま先は壁にぶち当たり、顔面を壁にぶつけてしまう。鼻を押さえながらくらくらする頭で後ずさり、反対側の壁に背中をぶつけた。
散々だ。そう思った瞬間、背中にあった壁が開き、転がるように頭から暗闇へと飲み込まれた。
「い、痛い……」
床へぶつけた後頭部を両手で撫でさする。顔もまだ痛むのに、今度は後頭部、そして転がり込んだ衝撃でジンジンと背中まで痛かった。もう全身が痛かった。
身体を丸めて床にうつ伏せると、シロエはじっとその痛みが去るの待った。全身に床の冷たさが伝わると共に、次第に大声で泣き出したくなったがグッと飲み込む。
ぼくは、ぼくはパパの息子なんだ。それだけを心の支えに、ぎゅっと掌を握り締める。
そしてゆるゆると身体を持ち上げた。その目の前に真っ白な手が差し出された。
「大丈夫かい」
よくとおる涼やかな声だとシロエは思った。まるで風に揺れた森のざわめきのような優しく広く、そして強い声。
なぜか暗闇にはっきりと浮かんで見える白い手を指先から辿り、シロエはその手の主を見上げた。
すると何より先に赤い瞳がシロエを捕らえた。白い肌に白い髪、その真ん中辺りに発光するかのように印象的な二つの真赤な瞳。
シロエを見下ろして陰になっているはずなのに、彼の姿はしっかりとシロエの瞳に映った。
床に膝をついた彼はただシロエを心配そうに見つめていた。そしてシロエが顔を上げたと見るとやんわりと微笑み、もう一度先ほどと同じ言葉を繰り返した。
恐怖は感じなかった。ただその代わりにシロエは小さく息を吐きだす。
「たすけて……」
微笑んだ顔が、おやおや、と苦笑に変わった。そして彼はシロエの両脇を取り、シロエの身体を抱き上げる。ふわりと浮き上がるような感覚だった。
そしてゆっくりとつま先から床に下ろされた。
彼はまた膝をついた。今度はシロエが見下ろす番だった。目前の真赤な瞳が柔らかに光り、彼は小さく頭を下げた。
「怖がらせてしまってすまないね。もう大丈夫だよ」
謝罪の意を言い、彼はシロエの服からポンポンと埃を払った。埃と同時にシロエの心からこれまでの恐怖も舞い落ちていくような感じがした。もう身体も痛くはなかった。
大丈夫、この人なら怖くない。なぜかそう思えた。
そして最後に白い手がシロエの頭を撫でる。パパの少し強い手ともママの優しい手とも違った。柔らかくそして包み込むようにシロエの頭が撫でられた。くすぐったくて、頬が緩んだ。
「君をこんなに怖がらせた人を叱らないといけないね。おいで」
立ち上がって後ろ手に差し出された手へ、シロエは駆け寄って自分の両手で握り締めた。
赤い瞳が微笑んで隣りのシロエを見下ろした。だからシロエも笑った。