吐き出せない嘔吐感に目眩がした。
だが抗わねば、闘わねばならない。
今それに負ければどうなるか、シロエは知っていた。
自分という全てを奪われるのだ。楽しいもの嬉しいもの嫌いなもの怖いもの……愛していたもの、すべて。
負けるものか! 今度こそは奪わせない。その強い気持ちだけがシロエの意識を保たせていた。
「シロエ……!」
必死に抗うシロエにマザー・イライザの諭すような柔らかな声が迫る。そんなものに惑わされるものか。
天から降る声には逃げようもない。だがシロエは道もない、なにもない暗闇を走り続けた。
「シロエ、待って。そちらは、」
声と共に目の前の闇が波打ち、そこから蛇のようににゅるりと乳白色の細い手が伸びる。
「い、やだっ! 嫌だいやだ!」
シロエは叫びながら身体を翻した。だが喉元が捕まれ、その勢いに息が詰まる。
「い……やだ……」
シロエの喉元を捕らえたのは筋肉に包まれた男の手だった。動脈を締めぬようにと片手で顎を持ち上げ、もう一方でシロエの腕を胴体とともに捕まえてしまう。
背中に密着した身体も胸を通る腕も大男とは言い難い体格だ。だが、どんなにシロエがもがこうとも、彼はうろたえはしなかった。
「フィシス、今のうちに」
耳元ではなくやはりシロエの頭上から声が聞こえた。どこかで聞いた声だ。
警告、そんな単語がシロエの脳裏を掠める。
目の前に細い指が迫ってきた。
いつか、悪い人が。昔、誰かがシロエに言った。
細い指がシロエの強張る頬に触れる。それは温かな指先だった。
……嫌いだ! 昔、シロエが誰かに言った。
「ぴー、たーぱん……」
シロエは虚ろな意識のなか、力の抜けるその身体を背後の彼が力強く抱きかかえるの感じた。