ACT.02

 吐き出せない嘔吐感に目眩がした。
 だが抗わねば、闘わねばならない。
 今それに負ければどうなるか、シロエは知っていた。
 自分という全てを奪われるのだ。楽しいもの嬉しいもの嫌いなもの怖いもの……愛していたもの、すべて。
 負けるものか! 今度こそは奪わせない。その強い気持ちだけがシロエの意識を保たせていた。

「シロエ……!」

 必死に抗うシロエにマザー・イライザの諭すような柔らかな声が迫る。そんなものに惑わされるものか。
 天から降る声には逃げようもない。だがシロエは道もない、なにもない暗闇を走り続けた。

「シロエ、待って。そちらは、」

 声と共に目の前の闇が波打ち、そこから蛇のようににゅるりと乳白色の細い手が伸びる。

「い、やだっ! 嫌だいやだ!」

 シロエは叫びながら身体を翻した。だが喉元が捕まれ、その勢いに息が詰まる。

「い……やだ……」

 シロエの喉元を捕らえたのは筋肉に包まれた男の手だった。動脈を締めぬようにと片手で顎を持ち上げ、もう一方でシロエの腕を胴体とともに捕まえてしまう。
 背中に密着した身体も胸を通る腕も大男とは言い難い体格だ。だが、どんなにシロエがもがこうとも、彼はうろたえはしなかった。

「フィシス、今のうちに」

 耳元ではなくやはりシロエの頭上から声が聞こえた。どこかで聞いた声だ。
 警告、そんな単語がシロエの脳裏を掠める。
 目の前に細い指が迫ってきた。
 いつか、悪い人が。昔、誰かがシロエに言った。
 細い指がシロエの強張る頬に触れる。それは温かな指先だった。
 ……嫌いだ! 昔、シロエが誰かに言った。

「ぴー、たーぱん……」

 シロエは虚ろな意識のなか、力の抜けるその身体を背後の彼が力強く抱きかかえるの感じた。

 
written by ヤマヤコウコ