足を踏み出すたびに緊張感が肌を痺れさせた。
相手を畏れる理由などなにもない。だが、未だ使い慣れない力の存在が、否応なしにシロエの感情を追い詰めてくる。
「大丈夫だよ、シロエ。ここには普通の者は入れない。ほら、」
シロエの緊張を感じ取ったのか、ジョミーはそう声をかけた。そして、前方の人影をじっと見つめる。
「フィシスだ」
いつの間にか俯いていた顔をあげる。その名前に安堵で身体の力が抜けた。
フィシス、彼女はシロエがシャングリラの内でもっとも心を許せる人物だ。
そして、その位置づけは彼にとっても同様なのか、沈黙によって固まっていた頬を緩ませてジョミーはフィシスに駆け寄っていく。
「フィシス」
「まぁ、ソルジャー。お越しでしたか」
ゆるやかなドレスの裾を床に広げたフィシスは、立ち止まってジョミーを迎えた。その後ろには、まるで睨むような目つきをしたアルフレートを従えている。
アルフレートはまずジョミーを見、すぐにその厳しい目をシロエへと向けた。
「シロエを連れてきたんだ。ブルーに、会ってほしくて」
嬉しそうに語るジョミーの言葉に、アルフレートはシロエから視線を外し苦々しく顔を歪めた。どうやら彼はジョミーも、そしてシロエもあまり好ましく思っていないようだ。
正直なところ、シロエも彼を良くは思っていない。
目覚めてしばらくの後、はじめてフィシスと対面したときからアルフレートは表情を隠しながらもギラギラとした目でシロエを見ていた。
そこになにがあるのかはわからない。だが、シロエをフィシスが親しくすることを好ましく思っていないことは確かなようだ。それはきっと、ほかのミュウたちも同様なのだろう。
「シロエ」
急にかけられた声にシロエは弾かれるように視線を移した。
シロエがアルフレートに気をとられているうちにジョミーといくつか言葉を交わしていたのか、フィシスがいつもの柔和な表情をさらに緩めてシロエへと微笑みかけてくる。
「また、いらして下さいね」
「ええ。是非」
答えながらシロエは目の前の二人を合わせて見つめた。
シロエを助ける為に尽力したというジョミーとフィシス。彼らは、目覚めてからもなにかとシロエに目をかけてくれている。
マザーに被ったフィシスの声。シロエを捕まえたジョミーの腕。それらはまるで秘密の冒険のような親和感をシロエに与えていた。
そして今また、三人で顔を見合わせて微笑む。
「それでは」
フィシスはジョミーへと小さく頭を下げた。アルフレートもそれに倣い、二人はゆっくりとシロエの脇を通り過ぎていった。
「フィシスのところへは何度か行ったんだって?」
「ええ」
天体の間が気に入ったので、とシロエは付け加える。
実際は他のミュウたちから離れるのにちょうど良く。シロエを歓迎してくれるフィシスが心地良かった。ただそれだけだ。
「なら、彼のことも気に入ってくれるかな」
まるで星の光のような人なんだ、とジョミーは笑い、部屋の奥へと進んだ。
そしてたどり着いた青の間の最奥でジョミーは足を止める。
「ブルー、シロエを連れて来ました」
ジョミーの問いかけに答えはなかった。それにジョミーは小さく息を吐き、シロエを近くへ招く。
シロエは恐るおそる、青の間の最奥にあったもの――ベッドへと近づいた。
「アルテメシアで、連れてこられなかったシロエです」
ジョミーはベッドの脇で跪き、そこに横たわる人物の手を取った。
「この、人は……」
シロエは立ちつくしてベッドの上を見つめた。
シロエとそう変わらない背格好。だがその線は細く、肌は人形のように青白い。その姿はまるで霧のように儚い印象をシロエに与えた。
なのに身体が震えそうなほどの圧倒的な威厳と存在感に、ジョミーが「星の光」と喩えたことが納得できた。
「彼はソルジャー・ブルー。ぼくに長を押し付けて、ずっと眠り続けている」
身勝手な人だよね、とジョミーは笑いながら切なげな視線をブルーへ向ける。そこには絶対の信頼と哀しみが見えた。
「……シロエをシャングリラに連れて来れなかったときにブルーが言っていたんだ。『事の善し悪しは終わってみなければわからない』って」
ジョミーはシロエを見上げた。
「そしていま、君はここにいる」
「じゃあ、ソルジャー・ブルーがぼくを?」
シロエの問いにジョミーは首を振った。
そして、とりだしていたブルーの手をシーツの中へとそっと戻す。
「だけど、そうであればいいと思ってるよ」
言いながら、シロエの隣りに立ち上がったジョミーは、瞳を閉じたままのブルーをじっと見つめた。
シロエもそれに倣いブルーへと視線を向ける。いつか言葉を交わせる日がくるのだろうか。ぼんやりとした期待を胸に、その星の光に似た姿をしっかりと脳裏に焼き付けた。